カテゴリー「歴史の真実」の47件の記事

2009年10月13日 (火)

911公式報告書草稿責任者による内部告発

藤田幸久ブログより

911委員会の上級スタッフで、委員会報告書草稿作成の責任者だった、元ニュージャージー州検事総長ジョン・J.ファーマー(John J. Farmer)氏が、2009年9月8日、9.11事件から8年、「911委員会報告書」の公表から5年目に本を出版しました。

The Ground Truth: The Story Behind America’s Defense on 9/11
「根底に横たわる真実:9.11の日に米国の国防の裏側で何が起こったのか」(仮訳)

 【Amazon図書紹介】http://www.amazon.com/gp/product/product-description/1594488940/ref=dp_proddesc_0?ie=UTF8&n=283155&s=books

Publishers Weekly誌・911委員会委員を務めたBob Kerrey上院議員・ピューリツァー賞受賞者Haynes Johnson氏などによる書評、そして出版社による内容紹介(Product Description)と作者紹介などもあります。

 現在は、ラッツガー大学法学部長 であり元ニュージャージー州検事総長も務めたファーマー氏は、かつて911委員会の上級スタッフで、委員会報告書草稿作成の責任者でした。彼は本著の中 で、911委員会による正式な説明が偽りの証言と文書に基づいており、ほとんど偽りであると断言しています。

そして、911委員会に対して、FBIやCIA、ホワイトハウス、NORADは偽りの情報を提供した、このことを証明する文書も存在すると言います。

 彼は、更にこう語ります。 

「ある時点において、政府のあるレベルの人々の間で、事件に関して真実を話さないようにしようとの合意が存在した。・・・私は、真実が公式の説明と大きく異なることに衝撃を受けた。・・・[NORAD]の記録テープには、我々や国民が2年間聞かされてきたのとはまったく違う話が録音されていた。」

911委員会の委員長を務めたニュージャージー州知事トーマス・ケインは、次のように述べています。 

「今日に至るまで我々は、なぜNORAD[北米防空総指令部]が我々にあんな事実とかけ離れたことを言ったのか分からない・・・」 

911委員会のメンバーでもあったボブ・ケリー前上院議員は、こう語ります。 

「911の 悲劇に関して決定的な本を書くのにふさわしい人間はジョン・ファーマーをおいてほかに誰もいない。幸いなことに、彼はこれを実行してくれた。もっと幸いな のは、このようなことが二度と起こらないことを願う人々のために、はっきりと、生き生きと、そして、分かりやすい書き方をしてくれたということだ。」 

現在、911事件に関する唯一の「公式の」報告書であるものがまったく偽りであるならば、これらの嘘によって、誰が傷つくのだろうか。真理を求めて何年もの間戦ってきた911事件の犠牲者の家族です。 

この本の意義は 

(1)米国政府と国家機関が米国議会と911委員会に嘘を提供し真実を隠した
(2)そのことを「911委員会報告書」をまとめたスタッフ自身が明らかにした
という2つです。

このような「911委員会報告書」の虚偽については、911委員会委員の3名が明らかにしています。以下の詳細は、私の拙書「911テロ疑惑国会追及 オバマ米国は変われるか」をご参照下さい。

委員会が事件調査を続けている2003年12月に、委員であったマックス・クリーランド(Max Cleland) 上院議員が、政府機関の隠蔽と嘘にたまりかね、「いまやこの委員会は活動を封じ込まれてしまった」と語って委員を辞任した。そして報告書が公表されて2年 後、2006年8月には、911委員会の委員長を務めたトーマス・ケイン氏や副委員長のリー・ハミルトン氏の共著による「Without Precedent:The Inside Story of the 9/11 Commission(前 代未聞:9・11委員会の内幕)」という本が出版されました。それはこのファーマー氏の本と同様に、米国政府と政府機関がどれほど委員会の調査に非協力的 であり、資料を隠し嘘の情報を委員会に与えたのかを暴露する内容となっている。ケイン氏とハミルトン氏は、ニューヨークタイムズ紙やワシントンポスト紙に 対しても、同様の内容を語りブッシュ政府とCIAやNORADを非難しています。

以下は、9月11日付Salem-News.com誌に掲載された退役海兵隊員ゴードン・ダフ氏による書評です。

http://www.salem-news.com/articles/september112009/911_truth_9-11-09.php#

「9.11委員会は、政府の嘘に基づいたものだとして、自らの報告書を拒絶する」

ゴードン・ダフ Salem-News.com (2009年9月11日)

どれほど長い間、我々は愛国者の血をこの「偽りの木」に注いできたのか?

(オハイオ州シンシナティ) ジョン・ファーマーの著作“The Ground Truth: The Story Behind America’s Defense on 9/11″「根本に横たわる真実:9.11におけるアメリカ防衛の背後に」の中で、この著者は、公式の見解が、ほぼ完全な嘘であるという逃げることのできない説得力を持つ事実を立証している。

い まや911委員会は、9.11事件の公式な見解が偽りの証言と文書資料に基づいたものであり、ほとんど全面的に嘘であることが明らかになった。この壮大な 隠蔽工作の詳細はジョン・ファーマーの著作の中で丹念にその概要が描かれている。彼は911委員会の上級スタッフであった。

ラッツガー大学法学部長であり、ニュージャージー州検事総長であったファーマーは、911委員会報告の欠陥だらけの最初の草稿の責任者だった。

ファー マーは委員会の他の委員たちの協力と同意を得ているのだろうか?-その通り。彼らはブッシュが9.11を命じたと言ったのだろうか?-いや違う。彼らは FBI、CIA、ホワイトハウスおよびNORAD(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)が911委員会に嘘を付いたと言っているのだろうか?-その通り。それ を証明する十分な資料があるのだろうか?-その通り。

ファー マーは次のように語る。「政府内のあるレベルで、そしてある時点で・・・、起こったことについての真実を語らないという合意ができた・・・。私は、報告さ れたことがいかに真実と異なっているのかを知り、ショックを受けた。その[NORADの]テープには、あの2年間に我々と国民に語られてきたことから、あ まりにもかけ離れた話が録音されていたのだ。これはもうむちゃくちゃだ。

911 委員会のトーマス・ケイン委員長は共和党のニュージャージー州知事だった。彼は次のように言う。「我々は今日に至るまで、どうしてNORAD(北米防空総 司令部)があのようなことを我々に語ったのかわからない。それは事実とはあまりにもかけ離れたことだったのだ。・・・」と。ブッシュが自らの手で選抜した 委員会は、その隠ぺい工作に付いて行けず、犯罪捜査を要求したのだが、どうして何もなされなかったのだろうか?

911 委員会の委員で元米国上院議員のボブ・ケリーは言う。「ジョン・ファーマーをおいて、他に9.11の悲劇について確かな本を書ける適任者はいない。幸いな ことに彼はそうしてくれた。もっと幸いなことに、彼の言葉は明晰であり生き生きとしており、そしてこのようなことが二度と起きないようにと願う全ての人を 納得させるものである。」

唯 一の9.11「公式」報告書が全面的な嘘であると明らかになった今、我々はこれから何をなすべきか? これらの嘘によって誰が最も傷ついたのだろうか?  9.11犠牲者たちの家族は、何年間も真実を求めて闘い続けてきた。何年間も我々の政府は嘘と機密の背後に隠れ、嘘が終わることを拒否してきた。

2006 年にワシントンポスト紙は次のように報じた。「何人かの委員会関係者によると、違法な行為ではないかという疑いが深まったため、この10名からなる911 委員会は、2004年夏に任期が終了する際に秘密の会合を持ち、司法省にこの件を犯罪として捜査するように提言するかどうかについて議論した。スタッフメンバーたちと一部の委員は、e-メールやその他の証拠によって、軍当局と航空当局が議会と委員会に対して虚偽の発言をして法を犯したと信じる十分な理由があると考えた。」

ファーマーの本は我々に何を伝えているのか? 彼は何の解決も与えてくれない。ただただ、語られたことに対する全面的で完全な否定である。そして政府側に正直さが全面的に欠如していた、つまり政府が背後に何かを隠しているという彼の考えを語るのみである。

ファー マーはそれが何なのかは決して語らない。ファーマーが語った以上の発言をすれば、誰であろうと政府関係の仕事を続けることはできなくなるだろう。ファー マーが語らなかったことは何だったのか? いくつかのことが挙げられる。我々は911委員会で取り上げられた情報が、単に政府による嘘ばかりではなく、今 や虚偽であることが明らかになった作り話を裏付けるために、情報提供者に対する拷問による証言に基づいたものであることを知っている。一つのパターンが浮 かび上がる。

我 々は、9.11直後に、それ以後に逮捕され尋問された人々よりも、犯人や情報提供者である可能性の高い多数の人々が、大統領命令で直接サウジアラビアに搬 送されたことも知っている。その人々が何を証言できたであろうことを知ることは決してあるまい。彼らが議会やFBIの手の届かないところにさえいなけれ ば、彼らの証言は真の捜査にとって不可欠なものとなっていただろうに。

9.11 以前からのCIAとビンラディンの関係に関する最新の証拠や、ペンタゴン攻撃に関する物理的な証拠の歪曲などのあらゆる疑問は別にして、何十人もの政府高 官たちによって為された組織的な偽証の事実を求めることができなかったことが、現在、すべてのアメリカ国民に対する罪として暴露されているのである。

我々は、どこでこれらの嘘が始まり、どこで終わったのかを見つけたのだろうか? そんな根拠は何も無い。逆の根拠があるだけだ。嘘は生き続けており、真実が求められることは決して無いだろう。それを担う勇気はまだ見出されていない。

もしその血の最後の一滴をかけてでも真実を求めたいと願わないのなら、そんな奴をアメリカ人と呼ぶことができるだろうか?

どれほど長い間、我々は愛国者の血をこの「偽りの木」に注いできたのか?

ゴードン・ダフは海兵隊の退役軍人であり、「Veterans Today誌」のレギュラー寄稿者である。彼は政治・社会問題を担当する。彼が公表した文章はVeteransToday.com. サイトで見ることができる。

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2009年10月 7日 (水)

あの時、中川はやられました。

国際会議で飲酒の末、醜態をサラシ、辞任に追い込まれた前財務大臣・中川昭一は、

金融恐慌の最中にあるアメリカに対し、資金援助するよう米国側から要請を受け、

米国の金融ギャンブル投機に対し相当、厳しい批判を加え、

ドル=円の為替問題についても、相当、厳しい注文を米国に要求したため、

米国金融筋から「中川を潰せ」という命令が出ていた。

中川潰しの「黒幕」は、米国金融の中枢ロスチャイルド銀行ゴールドマン・サックスの会長ジョン・セインであり、

セインの親友である東芝会長・西浦泰三が「陣頭指揮」を取り、中川財務大臣の「酒に薬を混入させた」。

東芝は、ロスチャイルドの原子力発電産業の中心であるウェスティングハウス社の親会社として、

ロスチャイルドの「核兵器産業の実働部隊の中核企業となっている」。

西浦の指示で「中川に薬を盛った」のは、

ゴールドマン・サックス直系の株屋ブルームバーグ日本の下土井京子、

下土井の手足として動く東芝会長・西浦の子飼い記者・取材屋=読売新聞記者・越前屋知子、日本TVの原聡子である。

この3人が、ロスチャイルドの手先として中川のワインに「薬を投入した」犯人である。

*・・・ なお、亀井静香には、近年、顔色が赤く、眼球の白眼の部分が充血している様子が窺われる。これは軽い脱水症状を起こし、長い年月をかけ心筋梗塞、脳梗塞を 引き起こす遅効性の毒を盛られている可能性がある。高齢の亀井が心筋梗塞、脳梗塞で倒れても、誰も服毒を疑うものはいないであろう。郵政民営化に反対する 亀井が担当大臣となった事に、米国筋が黙認するとは限らない。

                    オルタナティブ通信

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2009年10月 3日 (土)

吉田茂側近がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見

               

  吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895~1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコード ネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が 米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる 貴重な発見だ。

               

 有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書など を総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すこ とで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。

               

 CIAの辰巳氏に関するファイル(52~57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR―5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。

               

  辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉 田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。

             

2009/10/03 10:29   【共同通信】

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2009年9月27日 (日)

ガンジーの遺品 高田博厚の自慢

まさか農兵節で有名な三島に、いつでも自由に見ることのできるガンジー像があるとは思わなかったという方々のご要望にお応えしてご説明します。
三島プラザホテルは、三島大社の前の通りを広小路駅の方に進んだ左側にあります。
写真に載せた像は、フランス哲学者、”幸福論”のアラン1932年、ガンジー1960年、コクトー1964年、ロマン・ロラン1961年、ルオー1967年、女のトルソ1973年、ですが、
時代の思いをそのまま切り取ったような生々しさがそのまま永久に残されることになって、時代にさまよう我々に、先達の苦悩の断片を直接伝えてくれる役割が感じられます。
ロマン・ロランをして、「精神を形作る本当の芸術家だ。彼は指で思索する。」と言わしめた、高田博厚と、対象者の魂を感ずることができるこの空間は、三島の宝物だと思います。三島プラザホテルには心から感謝したいと思います。
 ガンジーの遺品は、2点のみ。使っていた、眼鏡(それもツルが曲がったままの)と、日光の三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)の手に乗るほどの置物で、日本の坊さんがプレゼントしたもの、です。判る人には判ると思いますが、ガンジーは、人間ではありません。語弊がありました。地球人ではありません。判らない人は、三島に来られて、直接ガンジーに聞いて、感じ採って下さい。
 高田博厚についてもおもしろいエピソードがあります。絵描きの先輩のお話ですが、酒の席で、あそこ(この指示語は、日本人全ての人が、ああ、あそこなんだと分かるほどハッキリした特定語になってしまっていますが)の大きさを自慢する場面となったとき、他の人はまじめですから、ショートホープの外側の筒状の箱に、あそこ(女性のために説明しますが、この場合のあそことはペニスです)をつっこんで落ちなければ大きいと言うことで自慢すると言うきわめて馬鹿馬鹿しい酒の席でのコンテストなのですが、何人も簡単に落ちてしまう中、高田博厚は、ただ一人落ちなかったので、皆から巨根(大きいあそこのことをこのように言います)の持ち主だと以後ずーっと思われたのですが、実は、彼は、棒の部分だけではなく、玉を含めた袋の部分も一緒にホープの箱に入れてしまった、ということなのです。ですから落ちるわけがありません。平然と事を為し、知らん振りしている彼の思いやいかに、という感じですが、彼の人となりを示す格好のエピソードでしょう。その彼が、このガンジー像ですからね。作らされたとしか思いたくない人もいれば、彼だからできた、という人もいるでしょう。皆さんは是非ガンジーを体験していただいて、ビールを一杯飲んだあと感想をお聞かせ下さい。伊豆箱根に来られたらガンジーを見なくちゃ。

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2009年9月24日 (木)

911でのビデオ捏造の新しい証拠

概要.911においてビデオ捏造が行われた有力な証拠として5つの論が現れている:第一にユナイテッド航空175便は高度に対して不可能なスピードで航行していること、第二に破片を撒き散らすことなくサウスタワーへ侵入することは物理法則的に不可能であること、第三にニュートンの法則を全て破ってそのようなことが生じていること、第四にアメリカン航空11便のノースタワーへの衝突を撮影したNAUDET兄弟のビデオが二次的な爆発によって生じた切抜き状の穴を明らかにしていること、第五にEVAN FAIRBANKが撮影したユナイテッド航空175便の映像も同様な問題を露呈していること、である。

Madison,WI(OpEdNews)2008年、7月30日-傑出した911活動家Kevin Barretと911の真実を求める学者たちの創設者Jim Fetzerは911におけるビデオ捏造の、最強唯一でないとしても、そのうちの5つと思われる論拠の提示に至った。実際の所、それらは35年間論理、批判的思考、科学的推論を教えてきたFetzerに、あの日の出来事についてアメリカ市民を欺いてきたメディアの共犯関係を確立する上で「決定的」であると言わせるほど強力である。「私達に現在マスメディア、特にテレビが欺瞞に決定的な役割りを果たしていた圧倒的な証拠があると言わなければならないということが、報道の自由の悲しむべき現状です。」

独立自由党員としてWisconsinの第三区の議会に出馬しているBarretは、この1年半の間にビデオ捏造説の懐疑派から受容派になった Fetzerに、ビデオ捏造についての彼の考えを支持するより強力でより公式な支援を明らかにするよう要請した。「その間、私はビデオ捏造研究者と15回以上のインタヴューを行い、彼らが提供した証拠により他に納得の行く説明は無いと確信しました。」皮肉にも、彼とBarretは一緒に gcnlive.comで「The Dynamic Duo」というラジオ番組を受け持っており、Barretが月曜と金曜、Fetzerが残りの曜日に登場する。Fetzerが最も説得力があるとみなし、 BarretのTruth Jihad News(2008、7月16日)上に発表した論は以下である:

(1)複数の専門家(連邦航空局、英国空軍その他)が、
Michael Herzarkhaniのビデオに撮影されたユナイテッド航空175便を時速約560マイル(彼らの計算の平均値)であると計測している。この速度はボーイング767型機の高度35,000フィートでの航行速度に対応してはいるものの、航空技師でありボーイングの「シェイカーシステム」のデザイナーでもあるJoe Keithが最近、「175便、不可能な速度」というビデオ(http://www.youtube.com/watch?v=x2upl977dsY . で視聴可能)において説明しているように、空気が3倍濃い高度700から1,000フィートでは不可能であると思われる。一方Anthony Lawsonはそのような飛行機でも急降下の場合そのくらいの速度に達すると主張しているが、明らかにあの飛行機は急降下していない。

(2)飛行機がビルに入っていく様子もまた不可能に思える。
killtown.blogspot.com へ行き6番目の画像にスクロールすると飛行機とビルの間の相互作用を見ることが出来る。飛行機は鉄筋コンクリートの構造物に何の衝突の兆候を見せることなく、両翼もエンジンも胴体も他の部分も無傷なまま入っていく。動いている飛行機と止まっているビルとの相互作用によって大量の破片が飛び散り、飛行機は分解してしまっていたはずである。このことはWeb Fairy からMorgan Reynoldsにいたる初期から最新の批評家が現在まで数年間主張していることである。これもまたもうひとつの物理的に不可能なことである。

(3) Joe Keithが述べているようにここで観察される相互作用もまた3つのニュートンの運動の法則を全て破っている。第一の法則によれば、運動中の物体は力の作用がない限り同一の運動にとどまる。第二の法則によれば、物体は力が加えれらた方向に加速する。第三の法則によれば、同等の反作用が存在する。しかしあの飛行機は空気中もビル内も同一の運動のまま動く。これは、ばかげたことであるが、ビルが空気と同様の抵抗(力)しかないと考えない限り、ニュートンの法則に反することである。多くの計算によれば、飛行機は空気中でその全長分を8コマで動いており、またビル中も同じコマ数で同じ長さを動いている。このようなことはそれらが本物の物体や本物の相互作用であればありえないことである。彼の論文はhttp://nomoregames.net/index.php?page=911&subpage1=joes_law .で閲覧可能である。

(4)ユナイテッド航空175便のサウスタワーへの衝突もアメリカン航空のノースタワーへの衝突も鉄筋コンクリートに「切抜き状の穴」の形をした被害を及ぼしてはおらず、飛行機の衝突によって「生じた」と言われる「切抜き状の穴」は後になって現れる。Naudet兄弟の映像の検証が、実際には最初の衝突と火の玉の後の第二の爆発がノースタワーに切抜き状の穴を生じさせたということを明らかにする。右翼部分の穴の拡張は、何とあらかじめ計画されていたのである。
http://www.revver.com/video/605306/911-amateur-part-2/ にて
「911 Amateur, Part2」というこの現象の検証をご覧下さい。サウスタワーの切抜き状の穴の創造にも同じ技術が用いられていると考えるのが妥当である。

(5)同じビデオ研究者がEvan Fairbankの映像も検証し、多くの疑問点を発見している。彼の映像もまた疑いなく、Herzarkhaniの映像と同じ滑らかな侵入と衝突による破片の不在を示している。さらに検証は撮影の角度と撮影方法までも検証し、撮影者が明らかに嘘をついていることを示唆する。彼は「白い閃光」を見、それがジェット機だと分かったと主張している。しかしその時間はとても短く、この説明は明らかにまったくのでっち上げであると思われる。この検証をhttp://www.revver.com/video/605306/911-amateur-part-3/ . の「911amateur,Part3」 でご覧下さい。KilltownはEvan Fairbankのビデオに対して一定速度の運動であるとの議論を展開している。http://killtown.blogspot.com/2008/07/air-vs-skyscraper-video.html.

「ビデオ様式のため証拠が目に見える形で分かりやすく判定しやすいので、なぜKevinが議論は学術的に、論文の形で発表されなければならないと主張するのか困惑を感じます」、Fetzerは言った。「しかし実際にはMorgan Reynoldsが、71の脚注を含め54ページにも及ぶ彼の優れた検証「世界貿易センターにおける飛行機のだまし」においてそうしています」。この検証は彼のホームページhttp://nomoregames.net/ に保管され閲覧可能である。元ブッシュ政権の労働省のチーフエコノミストのReynoldsは、6冊の本と無数の論文を発表している優れた学者である。科学哲学と歴史の博士号を修得しているFetzerは、28冊の本の著者あるいは編者で、そのうちの3冊はJFKに関するものであり、1冊は911に関するものである。

911の真実を求める学者達は以前この件に関して「ビデオ捏造のますます増える証拠」(2007年、7月28日)という報道記事を発表している。これは911scholars.orgに保管され、閲覧可能である。これらの新しい議論について何が最も力強いかというと、議論が物理法則を破る、不可能な出来事の発生を明らかにしていることです、Fetzerは言った。物理法則は不可侵であり不変である。ということは、そのようなことがビデオに映っていれば、それは本物ではありえないということである。音楽家、作曲家でデジタル加工処理の専門家でもあるAce Bakerが最近述べているように、「911は内部の犯行であったのと同様メディアの犯行でもあったようである」。彼の検証「第5ヘリコプターの合成映像」はacebaker.comにて保管され、視聴可能である。

ビデオ捏造と飛行機の不在は同じことではない。なぜなら、もしビデオが本物であれば飛行機は存在したはずであるが、もしビデオが偽物であっても飛行機は存在したかもしれないし、存在しなかったかもしれないからである。偽物ビデオが飛行機と飛行機とビルの相互作用を隠す目的で捏造されたのかもしれない。「飛行機の不在はビデオ捏造よりも議論の的ですが」、Fetzerは述べた、「飛行機の不在を隠すためにビデオ捏造が必要とされたのであろうと示唆するかなりの状況証拠が存在しています」。例えば、目撃者と言われる人々の報告は私達が想像するよりもかなり少ない。偽記憶症候群の発生の方がニュートンの法則の侵犯よりも分かりやすい説明であると思われる。

本物の飛行機の存在を支持するとしてたびたび引用される残骸は何度も議論の的となっている。New Yorkの歩道で発見されたエンジンはボーイング737型機のものであり、767型のものではないようである。ペンタゴンで発見されたアメリカン航空の衝突から回収された残骸は1995年のColumbiaでの墜落でのものであった。アメリカ空軍大佐(退役)のGerge Nelsonは、これらの飛行機は全機ともそれぞれに機体特定を可能とする無数の部品から成っていたが、4箇所の「墜落現場」のいずれからもひとつの部品も回収されていない、と述べている。航空専門家のJohn Learは、民間航空機は空港から離陸可能になる前に、機長は飛行機が飛行準備完了を証明する「封筒」を提出しなければならないが、これらの飛行機の封筒もまたひとつも提出されていない、と指摘している。

おそらくより重要なこととして、Elias Davidssonはアラブテロリストと言われる人物がいずれの飛行機にも搭乗していた証拠が欠如していることを示す見事な検証をしている。これは911研究の最も重要なもののひとつである。http://www.aldeilis.net/english/images/stories/911/noevidence.pdf .「KevinはDavidssonを「The Dynamic Duo」(2008、7月11日)にゲストとして招いていたので、私はKevinが彼の労作に通じていることを知っています。ですから私はKevinがどう解釈したのか分かりません」、Fetzerは言った、「しかし入手可能な証拠は、飛行機が存在せず、全てがでっち上げではなかったかという高い可能性によって説明が可能なのです。私はここに示されている証拠を合理的知性が熟考すれば同様に、New Yorkでビデオ捏造が行われ、飛行機が幻想であったという極めて高い可能性が存在するという結論に達するはずであると考えます。この証拠は他にどのような解釈がされるのでしょうか?他にどのようなより合理的な解釈があるのでしょうか?」

James H.Fetzer
911の真実を求める学者たちの
創設者

       blueplanetokのブログ(2008年7月30日)より

youtube には実際の捏造証明映像がたくさん投稿されていますのでご自分でお確かめください。飛行機までCGだったのですからかなり大掛かりなインチキだったことがわかります。当時のわが国のテレビ解説もすべて作られたものであることがわかります。もっとも、いまだにテレビで911に関して嘘ばかり言っているのはわが国だけですが。うそつきコメンテーターは自民党がいなくなったようにさよならになるのもそう遠くありませんな。

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2009年9月17日 (木)

ロシアのFSBは、マイケル・ジャクソンはCIAに暗殺されたという

【6月26日 By: WhatDoesItMean.com 】
http://www.whatdoesitmean.com/index1244.htm

  FSB筋はメデベージェフ大統領に、マイケル・ジャクソンは“ほとんど間違いなく”アメリカのCIAによって暗殺された、と報告している。ロシア軍コスモ ス2450衛星が“決定的に”示すことは、ロサンジェルスでのスーパースターの死の直前、ソ連時代アメリカに盗まれたEMR兵器の型の電磁波パルスがマイ ケルの自宅に照準が合わせられて使用されているということだ。

 ソ連の研究を元にアメリカの軍産複合体が完成した、こうした暗殺に使用されるこのタイプの技術について、我々は「人権侵害に反対する市民」会長のシェリル・ウェルシュ氏の「電磁放射兵器:原子爆弾のように強力」のタイトルの報告書の中に以下の記述を見る。(http://www.mindjustice.org/emr13.htm
  「新たに機密扱いとなった国防省諜報庁(DIA)の報告書では、マイクロウェーブに対するソ連の広範囲に及ぶ研究は、混乱した言動、神経障害、心臓発作さ えも惹き起こす方法の研究に及ぶかもしれない、という。・・・AP通信社に出したDIAの報告のコピーは報道の自由法に基づき要求されたもの。国防総省の 機関であるDIAはこの研究のある分野については、国家の安全保障にかんする機密の部分になるためとして、公開することを拒否した」

 更に 重要なことは、ウェルシュ女史の2001年の記念的な報告書以来、アメリカはこの陰湿な技術を高度化させ、活性抑制システム(ADS)と名づけた。 ニュー・サイエンティスト誌が2005年に報告しているように、「アメリカ軍は新・非致死兵器を開発しようとしている:フェーザーのプロトタイプか?」(http://techrepublic.com.com/5208-6230-0.html?forumID=8&threadID=169615&start=0) として、「アメリカ軍は2kmの距離から耐えられないような苦しみの発作を起こさせる兵器の開発に予算をつけた。これは暴徒らに対して使用されることが意 図されていて、被害者は無傷のままとなる。しかし痛みを研究している者たちは、痛みをコントロールする研究が、兵器の開発に利用されていることに怒ってい る。彼らはこれが拷問に使用されるのではないかと恐れている」という。

◆この兵器の最終的使用について

 「2007年1月、セオドー・バルナ国防次官補代理(新システムとコンセプト担当)は、ロイター通信社に対し、『この技術を利用する兵器ができあがることを期待している。2010年までにはできるだろう』と語った。
  明らかに軍はあらゆるテストの結果、ADSがどうなるか分からなかった。マイケル・ワイン空軍次官は、イラクで使用する前に、アメリカ国内の群集にたいし て“痛みを起こす光線”を軍は使用すべきだと示唆した時、詳細は語らなかった。アメリカ人にとっては、そのような兵器を、たとえ非致死と分かっていても、 自国民に使用することを問題視しないということは考えられないことだったろう。
 ワグナーはこの兵器のニックネームを「死の光線」と名づけることを提案した。よく知られているように哺乳類をマイクロウェーブに晒せば、破裂するからだ。彼は全米にe-mailを送信し、その中で、彼の理論を証明しようとして生きた例を用いた」。

 CIAがマイケル・ジャクソンを暗殺する理由については、このFSBの報告書によれば、去年の11月にロンドンでマイケルがバハレーンの首長の息子であるシェイク・アブドゥラ・ビン・ハメド・アル・カリファ氏と交わした契約の非公式の取り決め(http://www.reuters.com/article/entertainmentNews/idUSTRE4AM2B320081124)内容にある、と言う。 それは、数百万ドルの契約料を前払いする代わりに、マイケルがイギリス公演を、これから起きることになっている大量虐殺事象に対する警告の“機会”にすることに同意しているというのだ。
 マイケルもアル・カリファ氏も、オーストリアの恐れを知らない調査ジャーナリストであるジェーン・バーガーマイスター女史の長い間の支援者である。彼女は世界に向かって人類史上最大規模の犯罪が進められようとしていると警告している人物である。以下の記事にこうある(http://www.naturalnews.com/026503_pandemic_swine_flu_bioterrorism.html)。

  「ジェーン・バーガーマイスター女史は最近FBIと共に以下の人々に対する刑事責任を申し立てた。世界保健機構、国連、その他政治家や会社役員で、生物テ ロと大量虐殺計画にかかわっている者達だ。彼女はまた強制ワクチン接種に対してもその禁止命令を準備している。こういった行動はバクスターAGとアビー ル・グリーン・ヒルズ・オーストリア生物工学社に対して、その汚染された鳥インフルエンザ製造に対して申し立てられた一件に続くものである。彼女は、こう したことが、パンデミックから利益を得ようとする入念に計画された陰謀である、と言っている。

 彼女の申し立ての中で、バーガーマイスター 女史はアメリカの法律に反する生物テロの証拠を示している。これが連邦準備銀行(FRB)を支配している国際的な銀行家たち、世界保健機構、国連、北大西 洋条約機構の指令の下で動いているグループによって起こされているとしている。

 この生物テロは遺伝子工学によって合成された鳥インフル・ウィルスを用いて、アメリカ国民の大量殺戮を進める目的で行われようとしている。このグループはアメリカ政府の部局と連携している。

  具体的に、被告である、バラク・オバマ・アメリカ大統領、デービッド・ナバロ・インフルエンザ対策システム・コーディネーター、マーガレット・チャン世界 保健機構局長、キャサリーン・シベリウス保健福祉局長、ジャネット・ナポリターノ国土安保省長官、デービッド・ロスチャイルド、デービッド・ロックフェ ラー、ジョージ・ソロス、ワーナー・フェイマン・オーストリア首相、アロイス・ストガー・オーストリア厚生大臣、中でもこの国際的犯罪企業シンジケートの 者達は、財政上、政治上の利益を獲得するために、アメリカとその他の国々の人口を減少させるために、生物兵器を、製造・備蓄し使用したという。

  この申し立ては、これらの被告たちは、お互いに共謀し、計画し資金を準備し、バクスター社とノバーティス社と共に、内密の生物兵器計画の最終的実行段階に 参加していた、としている。彼らはこれを、生物工学の力で行い、致死性の、とりわけ鳥インフルと豚インフルの生物学的医薬品を投入し、これを口実に強制ワ クチン計画を実行に移そうとした。これはアメリカ国民に死と傷害をもたらす有害な生物学的医薬品を投与するということを意味する。この行為は反生物兵器テ ロリズム法の直裁的な違反である」

 興味深いことには、マイケル・ジャクソンが暗殺された日、疫病管理予防センタ(CDC)は、彼らの数学 的なモデルは、100万人以上のアメリカ人が豚インフルに感染し、世界では5万8000人が豚インフルの症例として確認されていて、その内アメリカ人は半 分ほどで、さらに悪いことには、緊急隔離地区は問題とされた地域に設定されつつある、と報告したことだ。

 悲しいことに、そしてこの世界的 スターが問題の多い人生を過ごしたことを認めながらも、このマイケル・ジャクソンから人類全体に向けられていた真実の愛を取り去ることは決してできない。 彼のその愛は、人類に向けられた賛歌である、「We Are The World」の中に最高に表現されている。

世界を癒そう
そこをより良い場所にしよう
君と僕のため、そして人類全体のため
死んでいく人々がいる
生きている者達を大切にすれば
君と僕のためにより良い場所にできる

Heal the world
Make it a better place
For you and for me and the entire human race
There are people dying
If you care enough for the living
Make a better place for
You and for me.

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2009年9月15日 (火)

サギ師国家=アメリカの正体

アメリカのドル紙幣を印刷する際に、
偽サツ防止用に使用されている特殊なインクは、
日本の某塗料メーカーが製造し、
アメリカ政府・FRBに納入している。
このインクメーカーには、今年に入り、
この特殊インクの注文が例年の15倍入っている。
アメリカ政府が莫大な借金の返済のために、
ドル紙幣を大量に印刷し、それで借金の返済を行う計画であり、
当然、ドル紙幣は大暴落し、
米国債等、ドル建てで所持されている世界各国政府の外貨準備、
個人の資産が事実上、紙クヅになる事態が起こる。
資産の大部分をドルで持つ日本政府の発行する1万円札も、
当然、その「信用」の裏付けを失い紙クヅと化す。
アメリカ政府、世界を支配する者達が、
他人から借金するだけ借金し、兵器を買い戦争を起こし、
借金で世界一位の消費大国の豊かな生活を享受し、
借金は、最初から返済する気が無く、
「いかに合法的に踏み倒すか」だけを考える、
サギ師の集団である事が、明確に出ている。
このような理性も倫理もない人間達に世界を支配させておくと、
マジメに仕事をし、わずかな資金を万一の病気の場合の治療・老後の
生活のために貯蓄しておいた人間達の人生が、
ギャンブラー、サギ師によって破壊される結果になる。

             オルタナティブ通信より

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911攻撃の意味

911攻撃により家族を失った人達やその後殺された160万人のイラク人や数多くのアフガニスタン人には大変気の毒であったとしか言いようがない。しかし長い目でみるとこの事件は人類にとって気づきのきっかけであった。おそらく未来の歴史学者は、「その殺戮の惨さや傲慢さによって多くの人類が数千年近く続いた無知による奴隷支配から解放された」と書くだろう。

911攻撃の無能ぶりによって多くの人達が米政府の説明を疑うようになった。まさかこれを調べることにより、とてもおかしな古代から続く秘密結社の世界に辿り着くとは彼らも想像しなかっただろう。

これにより多くの何も知らない人間が目覚め、彼らと戦うようになった。また運よく昔からこのような秘密結社と戦っている人達に導かれるようになった。また我々は中華民族に対して感謝をするべきだ。彼らがこの戦いに参加したことにより力の均衡が変わり、この古代からの悪魔教の負けを確実なものとした。

この結社に催眠をかけられている多くの人達も近いうちに目を覚ますだろう。米連銀が崩壊したら次に崩壊するのは欧米の大手マスコミプロパガンダマシンである。そうすれば真実が人類を解放する。

A special thanks to the criminally insane morons who carried out the 911 attacks

Although my heart goes out to the families who lost loved ones in the 911 attacks and to the 1.6 million Iraqis and countless Afghanis who died as a result, in the long run those attacks were probably a good thing for humanity. The very arrogance, brutality and stupidity of those murders will be seen by historians as the tipping point that woke humanity from many thousands of years of slavery and ignorance.

The sheer incompetence of the 911 attacks and the countless clues they left behind led many to start to question the official explanation. Little did they know that by doing so, they would eventually end up going down a rabbit hole into a bizarre world of secret societies and occult evil.

Many people who were completely unaware of this ancient, evil secret world government woke up and joined battle against them. We were lucky to find the guidance of the brave few who have been fighting them all along in a desperate rear-guard action.

We will also owe an eternal debt of gratitude to the Chinese people who, at the very moment when things seemed most desperate, stepped in to help. By doing so, they tipped the scales and sealed the fate of this ancient satanic cult.

The people still under the hypnotic control of these beasts will soon be woken up. Once the Feds go belly up, the media machine they used to keep these people in a trance will also fall. The truth shall then set them free.

                                   ベンジャミン・フルフォード

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2009年9月 6日 (日)

読売新聞、日本テレビの正体?

 1920年、警視庁官房主事として、戦争に反対する労働組合等を弾圧した正力松太郎は、24年、読売新聞を買収。この新聞で、第二次世界大戦中、戦争を煽った事によって、読売新聞の事実上の創立者・正力松太郎は、45~48年まで戦争犯罪の容疑で巣鴨拘置所に拘置される。

51年、公職追放を解除された正力松太郎は、日本テレビを作ろうと資金集めにかかる。

当時、世界の支配者として姿を現しつつあった米国には、アメリカの政策が正しいと宣伝する目的で、米軍の別働部隊としてラジオ放送局VOAが創られていた。

VOA創立者のサウス・ダコタ州選出の共和党右派・上院議員カール・ムントは、部下であるニューヨーク弁護士=議会対策の顧問弁護士であり軍人でもあったヘンリー・ホールスウセン少佐を、日本に派遣し、正力松太郎に、VOAのTV版創立を働きかける。

ヘンリー・ホールスウセンはユニテル社という極東全域を支配する、米軍用TV企業を経営していた。

正 力松太郎は米国・国防総省と政界に強いコネを持つ、ワシントンのマーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所を通じ、アメリカ国防総省に、日本テ レビを日本支配=米国の政策宣伝TVとして創立する趣旨を伝え、ペンタゴンに協力を要請、承諾を得る。この「提携」の下、ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。

こ のペンタゴンによる、日本テレビ創立には、アメリカ上院外交委員会のバーク・ヒッケンルーパー上院議員、ジョン・スパークマン上院議員、軍事委員会のエベ レット・ダークセン上院議員が、「米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうためには、TVで、娯楽番 組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」として、議会への説得工作を展開した。

その結果が60年近く経ち、嫌というほど我々が日々目にするところのマスゴミの醜態です。日本テレビに続けとばかり、アメリカに媚を売ってきた全ての御用メディア。自民党壊滅のあとこの連中は、民主党を叩き続けるのでしょうか。電波芸者と呼ばれて久しい”評論家”連中が自民党を浮上させるためにお芝居をし続けるのでしょうか。せいぜい、鳩山夫人のノータリンぶりと、出自の不明、不倫等でたたくのが関の山でしょう。駆け込みの天下り問題は、みのもんたも取り上げていましたので、民主党の出番という最高の舞台が用意されております。是非お坊ちゃまを卒業していただきたいです。小沢一郎も、警察、検察にやられた分は、前生の悪代官ぶりを発揮して、徹底的に官僚どもをやっつけたらよいでしょう。庶民が喜ぶことですからあなたの評価も上がります。ジェイ・ロックフェラーも応援するはずです。

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2009年8月16日 (日)

日本の政界を支配し続けてきた、スコットランド貴族達の正体

オルタナティブ通信

環境問題でノーベル「平和賞」を受けたアル・ゴアの顧問弁護士であり、同時に、暗殺されたケネディ大統領の「財産管理人」として事実上、ケネディ家の財産 を「支配する」アンドレ・マイヤー。金で殺人を請負うイスラエル・マフィア「殺人株式会社」の顧問弁護士でもあるマイヤーは、その師匠と共に、長年、米国 中央銀行FRBの議長を務めて来たアラン・グリーンスパンを育て上げて来た。
マイヤーの部下であり右腕である、ワシントンのロウ&コーク法律事務所、リビー法律事務所は、長年、マイヤーの麻薬売買の代理人事務所として機能してきた。このリビー法律事務所の経営者ルイス・リビーが、米国チェイニー副大統領の主席補佐官であった。
同時に、このリビー法律事務所は、長年、中南米でバナナの黒人奴隷農園を経営してきたUF・ユナイテッド・フルーツ社(現在はチキータ・バナナ社)の顧問弁護士事務所であった。
UFの経営者一族がブッシュ大統領一族であり、その共同経営者が著名な「キャボット一族」である。UFの黒人監視組織が、後にCIAに発展する。

このキャボット一族が黒人を奴隷としたように、キャボットの「所有する」日本人奴隷として動いて来たのが麻生首相一族である。
  1492年 コロンブスはカリブ海に到達した。これが「コロンブスのアメリカ大陸発見」と言われている。しかし実際には、コロンブスはカリブの島嶼に到着 したに過ぎない。1497年、アメリカ本土に到着し、本格的に米大陸への入植を開始したのが、英国ブリストル港から来訪したジョン・キャボット、セバス チャン・キャボット親子であった。
キャボット一族は、21世紀現在、ロスチャイルドと、ロシアのプーチンに資金提供を行っているスイス金融界の源流である、ヴェネチア金融界の一画を占める、ジェノア生まれの銀行家ジョバンニ・カボートを源流としている。この一族はロシア・キエフのローゼンバーグ一族と縁戚にあり、ロシア=スイスの地下金融水脈を形成している。
この「真の米大陸の初代侵略者」キャボット一族は、アフリカ黒人を奴隷として米国に「強制連行する」奴隷商人として、巨万の富を築き上げる。
  キャボット一族は、この黒人奴隷貿易で得た資金を使い、1823年、麻薬専売会社ラッセル社の創立資金を提供する。ブッシュ大統領一族が監査役を務める ラッセル社は、トルコ製のアヘンを米国に持ち込み販売した。その流通を担当したのが米国内で独占的な麻薬販売網を形成していたシンジケート=パーキンス一 族であった。そのボス=ジョン・ハンディアサイド・パーキンスの娘エリザと、サミュエル・キャボットが結婚し、キャボット=パーキンス一族は、19世紀前半では全米一位の資産家に「成長する」。
米国の富が、黒人奴隷売買と、麻薬売買で形成された事実を、キャボット一族が体現している。
 このキャボット一族から「資金融資」を受け、創立されたのがウィリアム・フォーブスの雑誌「フォーブス」である。フォーブス・アジア支局は、キャボット一族の「アジアにおける麻薬売買とアジア人奴隷売買=誘拐された日本人女性を売春婦として売買するビジネス」の「安全確保」のための、諜報・スパイ組織として成立・運用されて来た。キャボットによる、アジア侵略の「先兵」が、フォーブス・アジア支局である。
 一方、キャボット家の奴隷売買・麻薬売買の富は、スイスに集積され、キャボットの代理人であるスイスのシェルバーン伯爵が、スイス金融界の「ドン」として君臨し続けて来た。

  19世紀、江戸幕末の日本で倒幕の武力闘争を開始した薩摩・長州に鉄砲・弾薬の購入資金を提供したモルガン財閥のJ・ピアポント・モルガンは、明治維新政 府の「生みの親」として、その代理人トーマス・ラモントを使い、日本の三菱財閥、三井財閥の「育成に力を注いだ」。モルガン財閥は、ロスチャイルド一族の 代理人であった。
ロスチャイルドの代理人として、米国で、ロックフェラー一族に資金を注ぎ込む「窓口」となって来たのが、このモルガンであった。
 1930年代、日本が中国侵略を行う際、その資金提供を行っていたロスチャイルド=ロックフェラー・ブッシュ一族。その資金提供の「交渉窓口」であった在日アメリカ大使ジョセフ・グルーも、また、モルガン=ロスチャイルド財閥の一族であった。ジョセフの従兄妹ジェイン・ノートン・グルーは初代J・P・モルガンの後継者ジャック・モルガンの妻であった。
この在日大使ジョゼフの妻アリス・ ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部 時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報 操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘 は秩父宮妃である。
このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。
九条節子等を通じ、昭和天皇以降の、「天皇に対する思想教育・思想洗脳」を「担当」して来たのが、奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボットと、世界帝国の指揮官ロスチャイルドである。
天皇は、ロスチャイルドによる日本人奴隷支配のための「先兵」に過ぎない。天皇は、ロスチャイルドの「出先機関」である。
アリスの夫ジョセフ・グルーも、ハーバート大学時代、学生新聞「クリムゾン」の編集に携わっていたが、同じサークル仲間の友人に、キャボットが創立資金を出した麻薬専売会社ラッセル社の中国支配人であったルーズベルト一族のフランクリン・ルーズベルト(後の大統領)が居た。
  一方、モルガン=ロスチャイルド資金で、倒幕に成功した明治政府の中核=薩摩藩士・大久保利通の息子は牧野家に養子に入り牧野伸顕を名乗っていたが、その 娘・牧野雪子(大久保利通の孫)は年離れの親友アリスに「事実上、師事」し、国際情勢・政治経済の「教育」を受ける。モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育 である。牧野雪子は吉田茂の妻となり、吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。
このアリスという女性の出自、日本での教育・土着の仕方、そして「政治的動きの奇妙さ」は、明らかに幼児期から英才教育を受けた諜報・スパイの動きである。
麻生首相の麻生産業グループの親会社が、ロスチャイルドの船舶会社ラファルジュであると言う経済的実態関係だけでなく、こうして、キャボット=アリス=天皇・吉田茂夫妻=麻生首相へと、有色人種(黒人、アジア・日本人)奴隷支配の「帝王学の系譜」は「継承されて来た」。

 なおキャボット一族の「直営」研究所が米国ブルッキングス研究所であり、かつてはナチス・ドイツの侵略戦争の「資金繰り」を担当した財務大臣ヒャルマール・シャハトを輩出している。

ま た、米国の通貨政策はブルッキングス研究所が作り、FRBが実行すると言われて来たが、このFRB議長を長年、務めてきたのがグリーンスパンである。グ リーンスパン自身が経営し、その会長を務めるコンサルタント会社タウンゼンド・グリーンスパン社は、ブルッキングス研究所の下部機関として調査・研究に 「従事」している。

グリーンスパンの「ボス」が、キャボット一族と「弁護士を共有」している事は先述した。

 また長年、 日本の内需拡大策(日本の富を米国買収に持って来るな、という通貨政策)として「日本の高速道路計画」を策定して来たのは、かつての日本道路公団では全く 無く、このブルッキングス研究所=キャボット一族である。日本の財政赤字を拡大させる「無駄な公共事業の元凶=道路族」の、バックボーンは、ここにある。

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2009年6月 5日 (金)

フルベッキ写真は一部合成です。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
高橋信一氏の調査による
「フルベッキ写真」に写っている人物
1 フルベッキ
写真中央の外国人
(村瀬寿代訳編「日本のフルベッ キ」。済美館の写真とは服装、胸元のネクタイ等の形が違うので同じ日に撮影されたものではない。グリフィスの原本にはフルベッキの写る大学南校の大集合写 真が掲載されている。グリフィスの撮影と思われる。東京大学図書館には同じ時に写されたグリフィスの写る同様の写真が現存する)


    2 エマ
フルベッキの左隣りの子供
(長男のウィリアムとも考えられているが、「立教女学院百年史資料集」や石黒敬章氏所蔵のフルベッキの家族写真から、エマと思われる)

    3 大隈重信?
中 列中腰の人物中左から2人目(「実業之日本-大隈侯哀悼号」、「大隈伯百話」。大隈の顔は広く大きな額、鋭い眼、への字の唇、長い顎が特徴だが、この写真 にはそれが見られない。耳の形が違う。また、頭髪の中央部が盛り上がった形は他の大隈の写真に類似のものを見出せていない点が問題である。撮影時期に長崎 に居たことは立証出来るが、「江藤南白」や大隈自身が編纂した「開国五十年史」に掲載されている「フルベッキ写真」には多くの人物の氏名を入れたキャプ ションがついているのに、極めて重要なはずの大隈の名はない。さらに大隈自身が「フルベッキ写真」に言及した記録は残っていない。これらの点は今後慎重な 検討を要する課題である)

 
    4 相良知安
左端の立ち居の人物
(鍵山栄の「相良知安」、長崎大学「出島の科学」他。「相良知安」掲載の知安が正装した写真は明治2年以降に内田九一の東京・浅草の写場で撮影されたことが、後方の欄干の形で確認された(森重和雄氏より))

 
    5 中野健明
知安の右隣り
(福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵)

 
    6 倉永猪一郎
中野健明の右
(「江藤南白」中の写真)

 
    7 鍋島平五郎
倉永猪一郎の右隣り
(毎日新聞社「日本の肖像 第8巻 旧皇族・華族秘蔵アルバム」)

 
    8 村地才一郎
鍋島平五郎の右隣り
(「江藤南白」中の写真、村地慮山「蝉蛻物語」、昭和45年10月号「佐賀史談」、札幌地方裁判所長)

 
    9 丹羽龍之助
大隈重信?の左隣り
(「江藤南白」の口絵)

 
    10 江副廉蔵
大隈重信?の前の二人のうち右
(「佐賀幕末明治500人」、「在京佐賀の代表的人物」)

 
    11 岩倉具経
大隈重信?の右隣り
(「写真集日本近代を支えた人々井関盛艮旧蔵コレクション」中にある岩倉兄弟が明治3年初め、服部一三・折田彦市・山本重輔と米国留学前に撮影した写真。「フルベッキ書簡集」にある岩倉具定と写っているのは具経でなく、小姓である)

 
    12 鍋島直彬
岩倉具経の右隣り
(「鍋島直彬公伝(昭和45年版)」。家紋が杏葉である。鹿島藩主。慶應4年2月戊辰戦争で徳川慶喜追討に出陣したが、長崎防備の命を受ける。岩倉兄弟を致遠館に迎えるにあたり、佐賀藩側の代表として列席したと考えられる)

 
    13 石井範忠
鍋島直彬の左後方
(「江藤南白」、幼名範次郎)

 
    14 丹羽雄九郎
石井範忠の左二人目
(「佐賀藩海軍史」、三重津海軍学校教諭)

 
    15 山中一郎
後列右から6人目
(「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」)

 
    16 香月経五郎
山中一郎の右隣り
(「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人」)

 
    17 副島要作
香月経五郎の右隣り
(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)

 
    18 中島永元
後列右から2人目
(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)

 
    19 石橋重朝
副島要作の前
(「佐賀 幕末明治500人」)

 
    20 石丸安世
石橋重朝の前
(「佐賀 幕末明治500人」。岩倉兄弟を佐賀から長崎まで送った)

 
    21 岩倉具定
フルベッキの右隣り
(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」、岩倉具定公伝)。尚、岩倉具綱・南岩倉具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、漢学を学ぶため弘道館に入ったので、長崎に来ていない)

 
    22 折田彦市
岩倉具定の前方、前列右から4人目
(板 倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」。岩倉兄弟の下僕として長崎遊学に随行、岩倉兄 弟と伴に米国留学、ニュージャージー大学に入学。後の第三高等中学校長。尚、折田以外の下僕は当時岩倉具視の側近だった宇田栗園(「岩倉具定公伝」)で、 兄弟の警護のために長崎まで随行したと考えられる。「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」には佐賀への道中や致遠館での兄弟の様子が述べられている)

 
    23 宇田栗園
前列相良知安の右隣
(宇田栗園「静観亭遺稿」、明治2年留守判官となる)

 
    24 大塚綏次郎
フルベッキの右前
(板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「専修大学120年 1888-2000」。明治4年ラトガース大学留学)

 
<引用資料>

「フルベッキ写真」に関する調査結果

慶應義塾大学 高橋信一


  最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月雑誌「太陽」に戸川残花によって初めて一般に紹介された。文中に「フルベッ キが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されている。明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載され た。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。本格的に世に知られる ようになったのは自称肖像画家の島田隆資が昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の 人物の比定を試み、「西郷隆盛が写っている」としてからである。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再 評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の 騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が、学界で議論が進んでいないにもかかわらず、勝手に「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前 を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館(広運館)の関係者と 写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長 州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っている というものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。

 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影 者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい野外写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。それ 以前にはこの「フルベッキ写真」を撮影出来るほど広い場所はなかった。それまで使われていた写場は横幅が半分以下で、例えば福岡博「佐賀 幕末明治500 人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている長崎の佐賀藩士たち9名の写真が撮影された。この大隈重信や副島種臣が写っている写真は慶應2年から3年の始 め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影されたものであることがわかっている。小出は慶應4年6月に帰国したが、そのころ長崎には大隈も副島も いなかった。小出は大隈が長崎に来る前の9月の始めに落馬により亡くなった。この写真は上野彦馬の写場の識別の重要な基準である。上野一郎氏の研究は30 年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。

 また、島田氏が用いた人物同定の手法は根本的に間違っている。画像工学の立場からきちんと再評価する必要がある。人間だけでなく、生物の体の各部分は所 謂黄金分割のような比率で構成されており、顔の長い人物も丸い人物も各部の比率はほほ同じようなものである。島田氏のやり方では誰が見ても違うと思われる 写真同士をかなりの確率で同一人物のものと断定してしまう惧れが高い。このような場合はむしろ、警察が用いているモンタージュの手法が必要である。目・ 鼻・口・耳・あご・眉毛・ひげ・頭髪などの個々の部分がどのような形をしているか、どのような配置になっているかを慎重に検討した上で、全体のバランスを 検証して始めて同定が可能である。島田氏は西郷隆盛以外の人物に自分の手法を適用した証拠を示していない。これも大きな問題で、個々の人物に対する同定の 確からしさを定量的に確証すべきだった。現状で島田氏の手法を歴史上の人物の同定に用いるのは極めて危険である。これらの点について言及した歴史研究家は いない。

 万が一、慶應元年(正しくは元治2年)の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に 英国に送り込んだ事実がある。慶應2年4月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚や石河確太郎(大久保利謙 「幕末維新の洋学」)の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島から送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽 島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(大 塚孝明「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だっ た藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態 でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影さ れた際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、島田氏の説に従えば「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士、寺島宗則、中村宗 見、鮫島誠蔵、五代友厚、森有礼の5名が写っていることになる。その内、五代友厚と見なされる人物は「江藤南白」によれば明らかに山中一郎であり、他の全 ても単なる当て嵌めと考えられる。

 その他の関連人物の内、勝海舟は慶應元年の1年間は、前年軍艦奉行を罷免され、江戸赤坂永川邸に蟄居させられていた。横井小南の甥たち、横井大平・左平 太兄弟は当時神戸の海軍操練所にいたが、3月18日に廃止になってから陸奥宗光らと長崎に出てフルベッキの教えを受けることになる。陸奥宗光は何礼之の私 塾でフルベッキに学んだ記録が残っている。大隈重信らが後に致遠館となる佐賀藩校で英学の教育を始めるのは、これより後である(久米邦武「鍋島直正公 傳」)。岩倉具視の息子たちが長崎に出向いたのは参戦した戊辰戦争が終わった明治元年秋以降で、大隈重信や副島種臣の活躍に感銘を受けた岩倉具視が佐賀藩 の教育を受けさせたいと希望するようになったのは慶應4年5~6月である(同じ文献)。その岩倉具視自身は皇女和宮降嫁の強行で反感を買い、文久2年9月 から慶應3年11月まで京都から追放になって、京都北東の岩倉村に身辺危険を感じながら蟄居していた。各藩の藩士が来訪するようになるのは慶應元年春以降 である(大久保利謙「岩倉具視」)。江藤新平は脱藩の咎により文久2年に小城に永蟄居させられ、禁が解かれたのは大政奉還後の慶應3年12月である。慶應 元年12月7日に太宰府に潜行して三条実美に面会しているが。大村益次郎は下関にいて、慶應元年(元治2年)2月7日に但馬に潜伏中の木戸孝允に手紙で下 関および藩内の戦況を報告し、2月9日に銃器購入の目的で壬戊丸を処分しに上海に出かけた。12日に高杉晋作から木戸孝允の居所を尋ねられた(大村益次郎 先生伝記刊行会「大村益次郎」)。このころ木戸孝允は行方が秘された存在だったのである。大久保利通は当時、吉井友実と共に薩摩から博多経由で京都に出か けており、2月2日に博多出帆に当たって、2月24日に京都から夫々西郷隆盛に宛てた手紙を出している(「大久保利通文書」)。中岡慎太郎と坂本龍馬は2 月5日と12日に夫々京都と大阪で土方楠左衛門と会合を持っている。さらに中岡慎太郎と大久保利通は22日に京都で会っている。全体を見ると、陶業者山口 氏が写っていると主張する人物の内、20名ほどは、慶應元年2月に長崎に滞在出来る理由付けが困難なのである。

 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英学塾、致遠館関係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のた めに、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉 具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っており、それを参考にした。しかし、大隈に関しては後に述べるように疑問がない訳 ではない。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」に よって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭「鍋 島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大 橋昭夫・平野日出雄「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」と村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」を参考にした。彼の事績については尾形裕康「近 代日本建設の父フルベッキ博士」が詳しい。

 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具視、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具 視公傳」などで調べた。「大隈侯八十五年史」、「日本のフルベッキ」、久米邦武「鍋島直正公傳」等を総合すると、慶應元年夏ごろ、大隈重信は長崎海軍伝習 所や弘道館の佐賀藩士に呼びかけ、長崎の佐賀藩校で副島種臣を学頭として英学の教授を始め、フルベッキは非公式に長崎奉行所の済美館と掛け持ちの授業を引 き受けた。この時から相良知安は慶應3年暮れに娘が生まれたのを機会に佐賀に帰るまで、致遠館で学んだ。慶應4年、年明けに鍋島閑叟の正式な侍医となり、 以降京都での行動を共にしている。「岩倉具定公伝」によると、岩倉具視は上の息子二人には漢学を、下の二人には洋学を学ばせたいと考えていたので、この表 から推測すると久米邦武は明治元年の10月に折田彦市・宇田栗園の二人の従者(「久米博士九十年回顧録」)と伴に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟 をフルベッキに預けることにして、石丸安世・相良知安らに長崎まで送らせたのではないか。フルベッキはこの時点で大阪に移籍する(東京に行くことになるの は、これより後である)ことが決まっていたが、致遠館は存続することになっていた。致遠館が廃止になったのは、版籍奉還があり、佐賀藩の内情が変化、生徒 の大部分が大学南校に留学する許可を得て東上し、教員が佐賀に戻って新しく学校が作られた明治2年8月以降である。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが 長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係 者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎歴史文化博物館に所蔵、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎 商業百年史」に掲載されている。尚、これを産能大学の「写真の開祖 上野彦馬」や石黒敬章の「幕末・明治のおもしろ写真」中の上野彦馬が写っている写真と 比較すると、後列右から4人目の不明となっている人物は彦馬自身と思われる。前者の写真の左端には草履を置いた石囲いをした植え込みと木の枝が写っている が後者にはない。またフルベッキのネクタイの形の違い、敷物の位置のずれなどから、二つの写真には撮影時期に多少の差異があると推定される。フルベッキは 11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月 に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新し い大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。大 隈は明治元年の9月から11月23日ごろまで、英国水夫暗殺事件の取調べのため長崎にいたと考えられる(「大隈侯八十五年史」、東京大学編と早稲田大学編 の「大隈重信関係文書」)。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。

 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。
 同定の方法は、間違って写っていると見なされる人物も含めて、関係者の写真を各種の文献から調査し、顔の各部を慎重に比較することで行い、付表1でまとめた人物の当時の行動と照らし合わせて推定した。
今後は画像解析による顔認証の技術を利用した検証が必要である。人物説明中に同定に用いた写真が掲載されている文献を示した。


フルベッキ
写真中央の外国人
(村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」。済美館の写真とは服装、胸元のネクタイ等の形が違うので同じ日に撮影されたものではない。グリフィスの原本にはフル ベッキの写る大学南校の大集合写真が掲載されている。グリフィスの撮影と思われる。東京大学図書館には同じ時に写されたグリフィスの写る同様の写真が現存 する)

エマ     
フルベッキの左隣りの子供
(長男のウィリアムとも考えられているが、「立教女学院百年史資料集」や石黒敬章氏所蔵のフルベッキの家族写真から、エマと思われる)

大隈重信
中列中腰の人物中左から2人目
(「実業之日本-大隈侯哀悼号」、「大隈伯百話」。大隈の顔は広く大きな額、鋭い眼、への字の唇、長い顎が特徴だが、この写真にはそれが見られない。耳の 形が違う。また、頭髪の中央部が盛り上がった形は他の大隈の写真に類似のものを見出せていない点が問題である。撮影時期に長崎に居たことは立証出来るが、 「江藤南白」や大隈自身が編纂した「開国五十年史」に掲載されている「フルベッキ写真」には多くの人物の氏名を入れたキャプションがついているのに、極め て重要なはずの大隈の名はない。さらに大隈自身が「フルベッキ写真」に言及した記録は残っていない。これらの点は今後慎重な検討を要する課題である)

(HP記:高橋先生ご指摘通り 左明治5年10月大隈重信トリミングや右大隈重信記念館展示大隈重信トリミングと比較して 中大隈重信?は 耳の形や鼻の形が全く異なる。)


相良知安
左端の立ち居の人物
(鍵山栄の「相良知安」、長崎大学「出島の科学」他。「相良知安」掲載の知安が正装した写真は明治2年以降に内田九一の東京・浅草の写場で撮影されたことが、後方の欄干の形で確認された(森重和雄氏より))

中野健明
知安の右隣り
(福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵)

倉永猪一郎
中野健明の右
(「江藤南白」中の写真)

鍋島平五郎
倉永猪一郎の右隣り
(毎日新聞社「日本の肖像 第8巻 旧皇族・華族秘蔵アルバム」)

村地才一郎
鍋島平五郎の右隣り
(「江藤南白」中の写真、村地慮山「蝉蛻物語」、昭和45年10月号「佐賀史談」、札幌地方裁判所長)

丹羽龍之助
大隈重信の左隣り
(「江藤南白」の口絵)

江副廉蔵
大隈重信の前の二人のうち右
(「佐賀幕末明治500人」、「在京佐賀の代表的人物」)

岩倉具経
大隈重信の右隣り
(「写真集日本近代を支えた人々井関盛艮旧蔵コレクション」中にある岩倉兄弟が明治3年初め、服部一三・折田彦市・山本重輔と米国留学前に撮影した写真。「フルベッキ書簡集」にある岩倉具定と写っているのは具経でなく、小姓である)

鍋島直彬
岩倉具経の右隣り
(「鍋島直彬公伝(昭和45年版)」。家紋が杏葉である。鹿島藩主。慶應4年2月戊辰戦争で徳川慶喜追討に出陣したが、長崎防備の命を受ける。岩倉兄弟を致遠館に迎えるにあたり、佐賀藩側の代表として列席したと考えられる)

石井範忠 
鍋島直彬の左後方
(「江藤南白」、幼名範次郎)

丹羽雄九郎
石井範忠の左二人目
(「佐賀藩海軍史」、三重津海軍学校教諭)

山中一郎
後列右から6人目
(「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」)

香月経五郎
山中一郎の右隣り
(「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人」)

副島要作
香月経五郎の右隣り
(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)

中島永元
後列右から2人目
(「佐賀 幕末明治500人」の口絵)

石橋重朝
副島要作の前
(「佐賀 幕末明治500人」)

石丸安世
石橋重朝の前
(「佐賀 幕末明治500人」。岩倉兄弟を佐賀から長崎まで送った)

岩倉具定
フルベッキの右隣り
(「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」、岩倉具定公伝)。尚、岩倉具綱・南岩倉具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、漢学を学ぶため弘道館に入ったので、長崎に来ていない)

折田彦市
岩倉具定の前方、前列右から4人目
(板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」。岩倉兄弟の下僕として長崎遊学に随行、岩 倉兄弟と伴に米国留学、ニュージャージー大学に入学。後の第三高等中学校長。尚、折田以外の下僕は当時岩倉具視の側近だった宇田栗園(「岩倉具定公伝」) で、兄弟の警護のために長崎まで随行したと考えられる。「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」には佐賀への道中や致遠館での兄弟の様子が述べられている)

宇田栗園
前列相良知安の右隣
(宇田栗園「静観亭遺稿」、明治2年留守判官となる)

大塚綏次郎
フルベッキの右前
(板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「専修大学120年 1888-2000」。明治4年ラトガース大学留学)



 香月経五郎、丹羽龍之助、江副廉蔵は慶應3年12月に、山中一郎は慶應4年9月に致遠館に入学している(岩松要輔「幕末維新における佐賀藩の英学研究と 英学校」(九州史学))。その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時 副島は40歳に近く、月代を剃っていた。また、明治元年当時あご髭を生やしていた(「蒼海遺稿」)。若い時の写真が似ているというだけで、人物を振り当て るのは学問的でない。伊藤博文は当事、兵庫県知事の職にあり、9月3日に起こった神戸での米国水夫暴行事件の処理に10月16日まであたっていた。また、 11月の初めに版籍奉還の建言を政府にしている(「伊藤博文傳」)。長崎に出向いた形跡はない。慶應元年、福井藩の命令で長崎遊学した日下部太郎、熊本藩 の横井大平、横井左平太は済美館で学び、当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。慶應年間、薩 摩・長州・土佐から何人もが長崎に遊学し、済美館や何礼之の私塾に通っっていたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。付表1に見るよう に大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀 は京都におり、上京の準備をしていた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を 収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光(「陸奥宗光」は数冊出されている)は面長であったことが各種 肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。

 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は上記の岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編 「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に詳しく記載されているが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本の フルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎などを特 定出来ていない。サンフランシスコ赴任前に税関長を務めた柳谷謙太郎の写真は横浜税関に所蔵されるが、比較しても該当者は認められない。ただし、岩松要輔 氏のリストにある辻小伝太や大塚綏次郎の他、鶴田揆一、副島要作の名は創立当初の佐賀県立中学校(分離前の佐賀高等学校)の教員記録(「佐賀県教育五十年 史」)にあり、郷土の教育に尽力し、佐賀の地に骨を埋めたことから、彼らの子孫が現存する可能性は高い。

 その他の「フルベッキ写真」解明の手懸かりとして、人物像中の家紋が考えられ、島田氏や一説にはNHK北海道テレビのプロデューサが写真を大幅に拡大し て家紋の判読を行って、人物を特定したと伝えられている。しかし、例えば「フルベッキ写真」の最も右端と左端の人物の家紋は正面から写っているにも拘ら ず、露光オーバーで細部が完全に潰れており、写真の解像度の問題でなく、拡大しても判読は不可能である。その他の極限られた可能性についてみると、以下の ようになる。最もよく判定出来ているのはフルベッキの右隣りの人物で、極めてめずらしい「二重輪」の紋であり、別府晋介の「三つ扇」ではない。フルベッキ の後ろの西郷隆盛と誤解された人物の左隣りの人物は大久保利通の「三つ藤巴」の紋ではない。さらに、その左隣りの人物は「鍋島杏葉」の紋の鍋島直彬であ り、小松帯刀の「抱き梶の葉」ではない。井上馨は当時長崎奉行所にあって、奉行所の英学校「広運館」を監督していたのでフルベッキとの繋がりはあった。し かし「丸に三つ星」の井上家の次男として生まれ、安政2年志道家の養子(家紋は「蛇の目」)となって一女をもうけていたが、文久3年洋行前に離別し、井上 姓に戻った。元治元年以降の写真には新しく創作した「桜菱」の紋が写っており、井上馨の墓石でも確認出来る。江副廉蔵は家紋から特定することは出来ない。 その他の人物には家紋は写っていない。

 「フルベッキ写真」には相当数の人物が写っているので、鶏卵紙に焼き増しされたものが多数配布されたと考えられるにも係わらず、実際は極少数しか残って いない。確実に分かっているのは、産業能率大学にあるパリでの競売に掛かったものと江副廉蔵の子孫の家に伝わるものだけである。前者はオリジナルに極めて 近いもので、フルベッキから米国のオランダ改革派教会本部に早期に送られたものと考えられる。グリフィスの「日本のフルベッキ」執筆時にはアメリカにはな かった。後者は島田氏が同定に用いたものだが、前者と違い鶏卵紙に焼き付けられたものではなく、後年小沢健志氏が取得し、「勝海舟」などに掲載された名刺 判の元写真を明治年間に複写したものであることが、表面に写し込まれたキズ等で判明した。同じ元写真からの複写が東京大学史料編纂所に「中野健明氏関係史 料」として保管されている。元写真の所在であるが、長崎大学の武藤文庫にも同様に複写された写真が残されており、その由来は上野彦馬写真館が顧客の見本用 に作った写真アルバムだと考えられる。この写真アルバムは現在長崎の「江崎べっ甲店」が所蔵している。明治40年エマより提供されて「開国五十年史」に掲 載されたものの所在は不明である。大正3年「江藤南白」掲載の写真とも同一かどうか確認出来ない。

 近年陶板額等、フルベッキの子孫に伝わるものと云うのが流布しているが、真偽は不明である。フルベッキの子孫が戦後まで、日本に在籍した証拠はない。フ ルベッキの子供たちの消息については村瀬寿代「日本のフルベッキ」に詳しいが、早世した最初の子供長女のエマ・ジャポニカを除く全員がアメリカに渡り、彼 の地で生を終えた。最も長く日本に在住した次女のエマは夫の東京大学英国法教師ヘンリー・テリー(和田啓子ICCLP Annual Report 2004「明治お雇い外国人から、2004年夏法科大学院サマースクールへ」)が停年退職した明治45年にアメリカに渡った(宮内庁書陵部所蔵「明治大正 年間雇外国人教師人名録」)。彼女は明治32年フルベッキの死後に結婚しており、家族がいたとしても日本に残せる年齢ではない。

 こうした状況に至っているのは撮影の目的が岩倉兄弟の歓迎のためだったことにより、極少数の関係者にのみ配布されたものだからと推察される。全員に配布 されたら莫大な費用が掛かったはずである。今回の調査で、岩倉家には「フルベッキ写真」のオリジナルが残されていたことを昭和の始めまでは確認出来た。岩 倉家及び「岩倉公旧蹟保存会 対岳文庫」には現存していないようだ。致遠館の生徒・教師とフルベッキの送別のためではなかった。また、佐賀藩の多数の出身 者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なもの だったとされているが、記録が曖昧なままである。おそらく在籍者は数十名に留まるだろう。それらの子孫が記念のために名刺判に複写したものを所持している 可能性は十分考えられる。その内の一枚は最初に述べたように石黒敬七「写された幕末」にかって掲載されたが、森有礼所蔵のアルバム中にあったもので、キャ プションは「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘を囲む44人の各藩生徒」となっていた。

 明治31年フルベッキが亡くなった年に墓碑を建立するための募金活動が行われた。その報告書「故フルベッキ先生紀念金募集顛末報告」には216名の賛同 者の名前が記されているが、致遠館関係者は大隈重信を含めても10名に満たない。明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他 数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。明治初期の各種官員録に「フルベッキ写真」に写っている可能性のある人物として鍋島直彬、中山信 彬、中野健明、鶴田揆一、江副廉蔵、石橋重朝、堤 董信、中島永元、大塚綏次郎などを見つけることが出来る(川副 博「明治維新政府の佐賀閥」(昭和42 年4、6月「佐賀人」))。しかし、維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるにも拘らず、佐賀出身者は20名余りと薩摩・ 長州の数分の一である。各種明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎等が断罪された佐賀の乱を引き金とする明 治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの薫陶を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、 明治後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。

 偽説を主張する人たちには、常識的なものの見方が欠落していると言わざるを得ない。根拠もなく当て嵌められた人物の内、刑死・戦死・暗殺など異常な死に 方をした人物は森有礼、香月経五郎、別府晋介、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、江藤新平、大村益次郎、中岡晋太郎、広沢真臣、坂本龍馬、横井小南と 1/4に及ぶ。大隈重信もテロに遭って死ぬところだった。本当は写っているはずの山中一郎は佐賀の乱で処刑された。あの時代は和気藹々で未来を語る希望に 満ちた時代と云うよりは、命懸けで生き方を模索した時代だった。慶應元年にこれだけの大規模な秘密の会合をするだけの意思の疎通が出来ていれば、薩長同盟 は愚か大政奉還も版籍奉還ももっと早く行われ、戊辰戦争・西南戦争そして佐賀の人たちにとって諸悪の根源であった大久保・伊藤路線による佐賀出身の人材排 除の切っ掛けを作った佐賀の乱も不要だったのではないか。そういう歴史認識が根本的に欠如している。香月経五郎、そして五代友厚ではなく山中一郎は留学か ら帰ったばかりで乱に巻き込まれて命を落とした。優秀な生徒を亡くしたフルベッキの無念さを痛切に感じる。フルベッキが晩年大隈たちと疎遠になり、布教活 動に専念した一因だったかもしれない。

「フルベッキ写真」ではフルベッキをカメラの中心に置いて数人が椅子に坐っているが、その両隣に坐る岩倉具定と具経がこの写真の中で最も重要な、位の高い 人物である。岩倉具経の前に岩倉具視あるいは具慶がいるとの主張があるが、何処の世界に親を跪かせて写真を撮る人間がいるのか。この写真はお公家の子息で ある岩倉兄弟が一介の藩校に入学したことを記念するため撮影された、彼らを迎えた致遠館の教師と生徒による集合写真である。何処かへ消えて行った致遠館の 生徒たちの消息を解明するために、おそらくは佐賀を中心とした何処かにいるであろうその子孫たちの記憶を掘り起こして行くのが、今後に残された課題であ る。  (平成18年4月30日)
人間の顔で、成長するにつれて変化する所と全く変わらないところがあります。変わらないところの筆頭は耳です。現在でも、北朝鮮の指導者や、フセインやキムヒョンヒについて、全くウソ報道がまかり通っていますが、耳についてあなたが目にした写真を見比べれば一目瞭然となるのです。歴史的に決められてしまっていることに異議を唱えると学会からはつまはじきされてしまうようですから、本当のことが判っていても何も言わないということでご自身の安定をはかるということなでしょう。
©啄木鳥
啄木鳥

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2009年6月 4日 (木)

北朝鮮の核武装は米国の国家政策

 北朝鮮の核ミサイル開発と、「技術を共有する」イランの核ミサイル開発。

こ のイランの核ミサイル技術は、米国CIA「自身の手によって、敵国イランに、与えられた」。米国は、「自身でイランに核ミサイル技術を提供し」、その技術 がイランから北朝鮮に流れた、その後になり、核ミサイルを開発している「悪の枢軸」として、この2国を公式に糾弾し、「戦争を起こす材料」を捏造・創出し て来た。

戦争が起これば、米国軍事産業を中心として「経済が活性化」する。

 2002年2月、オーストリアのウィーン北部ハイン通り19番地の5FにあるイランIAEA事務所に、CIAエージェントが、 アメリカの核ミサイル技術の図面を持ち込んだ。この事務所は、イランが、こうした機密情報を「外国から盗み出す場所として機能させるため」、「表向きは」 オーストリアの民間企業の看板を出していた。そしてイランの国家機関であることが露見した場合の言い訳としてIAEAの「事務所と言う事になっていた」。

この時、イランに持ち込まれた核技術は、核ミサイルを炸裂させるための起爆装置「TBA480高電圧ブロック」の設計図であった。「上官の命令」で、この図面を「敵国イラン」に与えたCIAエージェントのコードネームは、「マーリン」。この日のため、ほとんど仕事らしい仕事も与えられず、ウィーンと米国を行き来していた月給5000ドルの職員であるマーリンは、カリフォルニア州サンフランシスコのソノマ郡の高級ホテルで、上官から、この図面を「イランに渡し、世界に核ミサイルを拡散させ、イラン・北朝鮮に核武装させる」任務を与えられた。

図面は、かつてアメリカが初めて核兵器を開発したマンハッタン計画の中心となったロスアラモス研究所のZ部門と呼ばれていた機関、現在のニューメキシコ州アルバカーキのサンディア研究所によって作成され、マーリンに渡された。

このアメリカによるイラン・北朝鮮「核武装計画」に関しては、CIAに対し、国家安全保障問題の「権威」である当時のサム・ナン民主党議員、リチャード・ルガー共和党議員が「密かに承諾を与えていた」。

北朝鮮のやることは全てが仕組まれた通りです。日本にミサイルを買わせるためと、核武装をさせるためのシナリオです。それに追随する官僚と政治家、マスゴミ。

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2009年6月 1日 (月)

有名な「両手を上げたゲットーの少年」写真はでっち上げ写真だった

 

Holocaust Denial Videos http://www.holocaustdenialvideos.com/
のサイトにこんな記事が出ていました。

The Famous Little Boy Photo is a propaganda photo from the Jewish Underground.
http://www.holocaustdenialvideos.com/littleboy/index.html

ワルシャワ・ゲットーから追い出されるユダヤ人という説明で流布されてきた超有名な写真です。この写真の出所はワルシャワ・ゲットー掃討作戦を指揮した親衛隊のシュトループ将軍がヒムラーら上司に送った「シュトループ報告」の写真帖だとされてきました。
「シュトループ報告」はニュルンベルク裁判に証拠として提出されて始めて世に出たのですが、この写真が広く知られるようになったのはアラン・レネの映画『夜と霧』で使われてからです。
と ころが、1990年代に亡くなったリトアニア出身の有名な「ゲットー写真家」、ジャボチンスキー系のシオニスト組織ベタルに所属していたGeorge Kadishの遺品として、この写真の乾板が合衆国ホロコースト博物館に寄贈されたのです。「1945年にミュンヘンの古本屋で見つけた」という説明で。上記記事ではこの写真について丹念に考証して、撮影者がKadish自身であり、「シュトループ報告」そのものがシオニストの偽造であったと結論しています。

http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/130.html

投稿者 はちまき伍長 日時 2009 年 6 月 01 日 03:37:16: Zpc9bbdVkJn3c

私のブログの歴史の真実に写真つきでありますが、ヒットラーが1985年12月、96歳まで生きていたことや、アンネの日記がまったくのでっち上げであったことがわかります。今回、”夜と霧”で使われたこの有名写真も、インチキであったことがわかりました。言われてみれば、写っている人が皆、何も緊張が感じられないですね。兵隊さんもうれしそうですね。よく見れば見破れそうなレベルです。世界を動かしていらっしゃる皆様が、すべて綿密な準備のもとに、映画、書物、博物館、その他文化人、ジャーナリストと称する権力者の手先などを手足として飼いならし、あらゆる媒体を使って、教育現場、テレビ、マスコミを総動員して世界人類総洗脳化がなされてきたことがお分かりかと思います。エイズもインフルエンザも同じです。いまどきマスクをやってる脳タリンはほとんどいませんでしょう。おかしくない、って、誰でもわかり始めているのです。真実を伝えるのは、あなたです。偽(ぎ)を見てせざるは、勇なきことなり、という言葉が今ほど重要なときはないと思います。

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2009年5月24日 (日)

豚インフルエンザの源流 すべては仕組まれたこと

1. 「今後5~10年で感染性・微生物兵器の開発が必要である。それは人間の免疫機能を破壊する性質のものであり、5年間で1000万ドルの予算が必要とな る。」1969年7月1日第91回米国連邦議会特別予算委員会小委員会議事録P129における、米国防総省研究技術次長ドナルド・M・マカーターの予算請 求。
この第91回連邦議会議案第15090号は認められ予算は承認されている。
これは米国政府が免疫機能を破壊するウィルス、エイズ・ウィルスを生物兵器として開発したという明確な証拠である。

2. 「免疫機能を破壊するウィルスについて、今後研究する必要がある。」WHO世界保健機構文書1972年第47号P257。
1972年当時、エイズ感染は世界規模ではまだ拡がっていなかった。WHOはなぜエイズの研究が必要と判断しているのか?予防のためであろうか?

3. 「1977年、WHOはアフリカ、ブラジル、ハイチで天然痘予防ワクチンにエイズ・ウィルスを混ぜ、有色人種に対し無料で大量に接種した。」ロンドン・タイムズ1987年5月11日付
WHOがエイズ・ウィルスについて研究していたのは、予防のためではなく天然痘ワクチンに混ぜエイズを注射し、有色人種を大量虐殺するためであった。
WHOは、「保健機関」では全く無く、病原菌・ウィルスを人間、特に有色人種に限定して注射する、殺人組織である。
なおWHOはミドリ猿に人間が噛み付かれエイズが拡散したとしているが、初期にエイズ患者が大量に発生したハイチやブラジルにはミドリ猿は存在しない。
ミドリ猿はエイズ・ウィルスを元々保有している、いわゆる「宿主」では全く無い。
またミドリ猿は黒人や有色人種だけを「選んで」噛み付いたり、ゲイの男性だけを「識別して噛み付く」といった「極めて特殊な能力」を持ってもいない。
ミドリ猿は細菌、ウィルスの人間への感染を動物実験する場合に「通常使用される」モルモットである。
WHOはミドリ猿を使用して、人間を大量虐殺するためのエイズ・ウィルス生物兵器開発を行っていた事を「自白」してしまっている。

4. 1978年、米国メリーランド州の国立衛生研究所伝染病予防本部は、ゲイの男性1000名に対し「ゲイの男性は肝炎にかかりやすい」として「無料」でB型肝炎ワクチンの注射を実施した。6年後にはその男性の64%がエイズを発症している。

5. 「エイズ・ウィルスは白人よりも黒人に感染しやすい性質を持っている。」米国NSC国家安全保障会議.議事録1978年ファイルNO46。
大統領直属の「軍事問題」の専門会議で、なぜエイズの殺傷力について議論が行われているのか?
しかも米国内でのエイズ大量発生がまだ報告されていない時代において、なぜエイズ・ウィルスが「黒人を死なせる効果がある」と「軍事問題として」議論されているのか?

6. 1978年、メリーランド州フォートデトリック陸軍細菌兵器研究所で、ウィルス学者W・D・ロートンを中心に世界中からあらゆる人種の血液が集められ、エイズへの感染の確率が実験されていた。
先のNSCの会議における「エイズは黒人の方が感染しやすい」という議論は、フォートデトリックからの報告を受けて行われた。
エイズ・ウィルスは、米国政府によって開発された黒人、有色人種を大量虐殺するための生物兵器である。

7. エイズ・ウィルスは、1974年フォートデトリックで生物兵器として開発が始まり、エイズ開発のためスペシャル・オペレーション・ディヴィジョン特殊作戦部(SOD)が設けられた。
作戦名は「アルフレッド王計画」と呼ばれ、FEMAとCIA、ブッシュとアレン・ダレスCIA長官がLSDを大量に買い付けていた、スイスのサンド・ホフマン・ラ・ロシュ製薬が開発に当たった。
開発資金はブッシュ一族のハリマン銀行、ロックフェラー、ベネチアのデル・バンコ (ウォーバーグ銀行)から出ていた。

8. フォートデトリックで生物兵器として生み出されたエイズ等のレトロ・ウィルスは、1910年代からニューヨークのハリマン優生学研究所で収集、蓄積されてきた研究を引き継いで開発されたものだった。

9. 「ニューヨークにハリマン優生学研究所が発足。資金はブッシュ一族の経営するハリマン銀行、シティ・バンク頭取クリーブランド・ドッジ氏から提供された(注1)。この研究所の指導者と してはハリー・H・ラフリン博士が就任し、ブッシュ氏はドイツのカイザー・ウィルヘルム優生学研究所にも多大な寄付を行い、ハリマン優生学研究所とカイ ザー・ウィルヘルム優生学研究所との提携関係を作り出している。同時に国際優生学学会も発足し、この国際的な優生学の研究組織の議長には、カイザー・ウィ ルヘルム研究所から招かれたエルンスト・ルーディン博士が就任した。
 ハリマン氏は以下のように語った。『ポーランド等には人種的に劣ったユダヤ人が大量に住んでおり、その貧困から彼等は米国へ流入して来ようとしている。米国をこうした病原菌の感染から守らなくてはならない。』」  米国新聞ニューヨーク・ワールド紙1915年9月4日付
なお、1932年に開かれた第3回国際優生学学会で、ハリマン研究所のクラレンス・キャンベル博士は、「ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは当学会の指導により 人種と人口に関する包括的な政策を実行しており、賞賛すべき成果を当学会はあげている」と発言している。
ここでは、ヒトラーのユダヤ人大量虐殺は、ブッシュ、ロックフェラーのハリマン優生学研究所が「指導して」行った、と「賞賛が行われている」。
ここで国際優生学学会の議長として選出されたと記載されているエルンスト・ルーディンは、ヒトラーの人種衛生局局長として、アウシュビッツ等のユダヤ人大量虐殺の直接の「指揮を取った人物」である。
また、ここに記載されているハリマン研究所の指導者ハリー・ラフリンは1936年、ドイツ、ハイデルベルク大学で、「ヒトラーにより名誉学位」を授けられている。
ハリマンは、ここで、「人種的に劣ったユダヤ人」を、「病原菌」と呼んでいる。
このハリマン優生学研究所は、何のために天然痘、ペスト、コレラ、インフルエンザ、エイズ等々の、細菌・ウィルスの研究・蓄積を行ってきたのか?
ハリマン優生学研究所は、「劣った人種を殺害する事を、標準優生殺菌法」と呼んでいる。病原菌である劣った人種を殺害する事を「殺菌消毒」と表現している。この「殺菌消毒」の目的で、天然痘、ペスト、コレラ、インフルエンザ、エイズ等々の生物兵器の研究が行われていた。
このハリマン優生学研究所の研究をアメリカの「国策」として引き継いだのが、フォートデトリック陸軍細菌兵器研究所、FEMA、CIAによる「アルフレッド王計画」である。

10. 「マウスをエイズ感染させマウスの持つ他のウィルスと結合させる事で、これまでのエイズ・ウィルスのように潜伏期間が長くなく、即座に発病し増殖力が強く 毒性も強い、そして空気感染する新型のエイズ・ウィルスの開発は既に完了している。」エイズ・ウィルス共同発見者ロバート・ギャロ博士の発言。  「サイ エンス」誌1990年2月号。
ここでは、ハリマン研究所の「蓄積してきた」天然痘、ペスト、コレラ、インフルエンザ、エイズ等々 に、「他の動物の持つウィルスを結合させる」事で、人間に対し、より殺傷力の強いウィルス開発が行われている事が語られている。2009年、「他の動物= 豚、鶏の持つインフルエンザ・ウィルス」が、人間に対し、より殺傷力の強いインフルエンザ・ウィルスとして流布し始めているのは「何故なのか?」

※ 注1・・・このクリーブランド・ドッジは第二次大戦後、日米安保条約を結び、日本に米軍を常駐させる事を決め、日本を中国、ソ連、北朝鮮に対する防波堤と し、そのための軍事力、経済力を日本に「付けさせる」事を決めた経済政策、いわゆる「ドッジ・ライン」政策の制作者である。

オルタナティブ通信より引用

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2009年4月29日 (水)

4000万人を殺したスペイン風邪の再創造

                    

       

        The Sunshine Project
        Briefing Paper - 9 October 2003
        http://www.sunshine-project.org

       

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このブリーフィングは、"Emerging         Technologies: Genetic Engineering and Biological Weapons, Sunshine         Project Backgrounder #12"からの抜粋である。

       

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        1918年のスペイン風邪は再生されている

       

生物兵器としてのインフルエンザと言うとき、これは特別に大げさな脅威のようには聞こえない。毎年の発生は多くの人々を死亡させ、とくに高齢者が犠牲にな る。風邪にかかるということは、一般的には差し迫った脅威というよりは、不快な体調不良として受けとめられる。しかし、インフルエンザのウィルスは大規模 な脅威となることがある。1918年と1919年には、いわゆる「スペイン風邪」が概算で2000万から4000万人の人々を世界中で死亡させた。この時 以来、非常に変異しやすいインフルエンザ・ウィルスが、特別に毒性の強い形で幾度となく再発生している。

       

1918 年に世界的な感染爆発(パンデミック)を起こしたインフルエンザ・ウィルスの株は、例外的に攻撃的だった。これは、劇症を引き起こす能力が高く、高齢者よ りは若年層に取り憑いて死亡させる傾向を持っていた。感染者の死亡率に関しては、他のインフルエンザ感染爆発が0.1%であるのに、このスペイン風邪は 2.5%であった(Taubenbergerによる:1997)。この高い死亡率は、若年層において顕著であり、アメリカ合衆国の平均余命をほぼ10年下 げることになった(Tumpeyによる:2002)。現在アメリカの研究チームによって行われている、この特別に危険なインフルエンザ株の再生創造は、生 物戦争の脅威への高い懸念を喚起するものだ。

       

最近の王立医学協会報(the Journal of the Royal Society of Medicine)の意見記事(Madjidによる:2003)によれば、インフルエンザはすでにエアロゾルによって感染させることが出来、この場合少量 のウィルスで大規模な感染を引き起こすことができるという。この記事の著者によれば、「インフルエンザ・ウィルスの遺伝子操作とエアロゾルによる散布の可 能性は、バイオ・テロリズムにおける高度な潜在能力を示唆している。」と続けているが、このインフルエンザ・ウィルスに関する悪意のある操作の可能性は、 アメリカの公衆衛生官にとっては非常に現実的な脅威と見なされている。つい2週間前(2003年9月末)には、1500万ドルの予算がアメリカ国立公衆衛 生局(NIH)からスタンフォード大学に対して承認されたが、これはインフルエンザ・ウィルスに関して、「もし、これがバイオ・テロリズムの手段として散 布された場合」にどのように防御するかという研究のためであった。[注1]

       

最近になって、ペンタゴンの病理学者に率い られるアメリカの科学者たちは、この飛び抜けて危険な1918年のインフルエンザ株を遺伝子的に再生しようという試みを始めた。ある実験では、部分的に再 生された1918年ウィルスはネズミを殺したが、一方で最近のインフルエンザ・ウィルスの遺伝子で創られたウィルスはほとんど何の効果も示さなかった。

       

ス ペイン風邪ウィルスを再生しようという試みは1950年代から始められた。当時の科学者たちは、アラスカの永久凍土に埋められた犠牲者から採取したウィル スを使って再生を試みたが、これはうまく行かなかった。[注2] 1990年代の中盤になって、米陸軍病理学研究所のジェフリー・トーベンバーガー博士 (Dr. Jeffrey Taubenberger)が、1918年のインフルエンザによる犠牲者の保存されていた組織サンプルの解析を始めた。この研究はインフルエンザの治療法 を捜したり、生物戦用の株を開発したりするためのものではなかったようで、どちらかと言えばもっと単純な動機によるものだった。つまり、トーベンバーガー と彼のチームは、ただそれが出来る技術を持っていたというだけのものであった。これ以前の実験から、彼のチームは保存された古い組織サンプルのDNAを分 析する技術を開発しており、この技術の新しい応用先を探していたところだったのだ。トーベンバーガーは、この人類に知られた最も致命的なウィルスの秘密を 暴くという研究を始めた理由について、「とりあえず、1918年のインフルエンザが、考えられる限り最も面白かったのです。」[注3]と述べている。

       

サ ウスカロライナ州のフォート・ジャクソンで1918年に死亡した21歳の兵士[注4]の肺組織が採取されたが、これは軍の科学者たちが望むように、分析と 解析が可能な損なわれていないウィルスのRNAの断片を含んでいた。1997年には、スペイン風邪ウィルスの9つの短いRNA断片が解析され発表された (Taubenbergerによる:1997)。このときは、1918年当時の組織保存方法が悪かったために、生きたウィルスもしくはウィルスの完全な RNA構造を再生することは出来なかった。

       

遺伝子技術によって、多様なソースからより多くのスペイン風邪のRNAが分 離された。2002年までには、このウィルスの8つのRNAセグメントのうち4つまでが完全に解析されたが、この中の2つのセグメントはこのウィルスの毒 性に関して最も重要な意味を持つと見なされるものであり、これらは、ヘマグルチニン:hemagglutinin(HA)とニューラミニダー ゼ:neuraminidase(NA)である。今後発行される科学誌である「突発性感染症誌:Emerging Infectious Deseases」には別のスペイン風邪のDNA解析に関する記事が発表されるだろう(Reidによる:2003)。

       

こ のプロジェクトは致死的な1918年株のゲノムを解析するだけに留まることはなかった。米陸軍病理学研究所はニューヨークのマウント・サイナイ医学学校の 微生物学者と合同の研究チームを編成した。この合同チームはスペイン風邪の再生を始めたのだ。最初の試みとして、彼らは通常の研究室用インフルエンザの遺 伝子断片に1918年株から取った1つの遺伝子を組み合わせた。[注5]  彼らはこのキメラをネズミに感染させたが、この実験では1918年株のある遺伝子はネズミに対しては、その危険性を弱める結果となった(Baslerに よる:2001)。[注6]

       

次 の実験は2002年の10月に発表されたが(Tumpeyによる:2002)、ここでは科学者たちは1918年株の2つの遺伝子を組み込むことに成功し た。このウィルスは、他の最近のインフルエンザウィルスの遺伝子で創られたものよりもネズミに対して毒性が強かった。[注7]  この実験は、1918年の悪魔を瓶から解放し、スペイン風邪に再び命を与えるまでには、あと少しというものであった。

       

科 学者たちは、この再生の試みが危険なものであることを承知していた。これらの実験は、ジョージア州アーデンにあるアメリカ農務省の実験施設で高度のバイ オ・セイフティ管理下で行われていた。また、科学者たちは彼らの研究が敵対的な目的に使用され得ることは認識していた:「応用可能な分子技術はバイオ・テ ロリズムに使用されるかもしれない」(Tumpeyによる:2002:13849)。

       

これらの実験を行う正当な科学的 根拠というものは見当たらない。最も最近の実験(Tumpeyによる:2002)では、1918年の遺伝子を含んだウィルスに対する既存の抗ウィルス薬の 効果を探ったとされているが、そもそも初めに1918年株の解析などしていなければ、1918年株に対する抗ウィルス薬の必要などないだろう。生物学的防 御の研究および民間のどんな医学研究においても、その裏面にあるものとの競走であるというのは本当のことであり、この表裏とは、自然に発生する病原の進化 と生物戦のための病原開発のことである。しかし、この競走においては、それが研究の動機となるような脅威を創造することは避けるべきものである。悪意のあ るサークルは存在する:「リバース遺伝子操作によって、望めばどんなインフルエンザ・ウィルスでも創ることができる技術が導入されている・・・これらの研 究は1918スペイン風邪ウィルスの遺伝子を使用することが目論まれている」[注8] これらの論議は、最近ではテキサスにおける別の最高度のバイオ・セ イフティ・レベルの研究所における国防研究を正当化するために提示されている。トーベンバーガーのパイオニア的研究がなければ、研究室に流れた資金は節約 され、結核やマラリア、HIVのような自然発生する疾病と闘う研究に投資されていたかもしれない。

       

他の論文では、これ らの実験はインフルエンザの進化や感染毒性に関するメカニズムの解明に寄与するかもしれない(Taubenbergerによる:1997)とも述べられて いるが、このような論議もまた怪しいものだ。1918年以来、多様な毒性および病原特性を持った多くのインフルエンザ・ウィルスが世界中の研究者たちに よって分離され特定されてきた。これらは、何世代にもわたる科学者たちが、その進化と病原性を研究するのにも余りあるものだろう。スペイン風邪の再生など というものは、必要なことでもなく、公衆衛生の視点からも支持されるものでもない。

       

個々の科学者にとって、このような テーマの研究をする理由はいろいろあるのだろう。科学的権威の足しにはならないものの、この「スペイン風邪」研究は、実際に権威のある科学誌には論文の連 載が保証される。軍縮の視点で見る場合、もし軍の研究機関がより危険性の高い病原を作ることに乗り出したならば、この分野は極度にセンシティブなものにな るだろう。もし、ジェフリー・トーベンバーガーが中国やロシア、イランの研究室で働いていたならば、彼の研究は生物戦争プログラムの「確たる証拠」として 見なされていたことだろう。

       

        参照

       

Basler CF, Reid AH, Dybing JK, Janczewski TA, Fanning TG,         Zheng HY, Salvatore M, Perdue ML, Swayne DE, Garc誕-Sastre A,         Palese P, Taubenberger JK (2001) Sequence of the 1918 pandemic         influenza virus nonstructural gene (NS) segment and characterization         of recombinant viruses bearing the 1918 NS genes. PNAS 98:2746-2751

       

Madjid M, Lillibridge S, Mirhaji P, Casscells W (2003) Influenza         as a bioweapon. J Roy Soc Med 96:345-346

       

Reid AH, Janczewski TA, Raina M. Lourens RM, Elliot AJ, Rod         S, CL Berry, JS Oxford, JK Taubenberger (2003) 1918 Influenza         pandemic caused by highly conserved viruses with two receptor-binding         variants. Emerg Infect Dis [serial online] October 2003, available         from: http://www.cdc.gov/ncidod/EID/vol9no10/02-0789.htm

       

Reid A, Fanning TG, Janczewski TA, McCall S, Taubenberger         JK (2002) Characterization of the 1918 "Spanish" Influenza         Virus Matrix Gene Segment. J Virol 76:10717-10723

       

Taubenberger JK, Reid AH, Krafft AE, Bijwaard KE, Fanning         TG (1997) Initial genetic characterization of the 1918 ヤSpanishユ         influenza virus. Science 275:1793-1796

       

Tumpey TM, Garcia-Sastre A, Mikulasova A, Taubenberger JK,         Swayne DE, Palese P, Basler CF (2002) Existing antivirals are         effective against influenza viruses with genes from the 1918         pandemic virus. PNAS 99:13849-13854

       

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[注1] Stanford University News Release 17 September 2003, online         at http://mednews.stanford.edu/news_releases_html/2003/septrelease/bioterror%20flu.htm

       

[注2] Spanish flu keeps its secrets. Nature science update         at www.nature.com/nsu/990304/990304-5.html

       

[注3] Profile: Jeffery Taubenberger at www.microbeworld.org/htm/aboutmicro/what_m_do/profiles/taubenberger.htm

       

[注4] AFIP scientists discover clues to 1918 Spanish flu, www.dcmilitary.com/army/stripe/archives/mar28/str_flu032897.html

       

[注5] The so called "nonstructural" gene (NS)

       

[注6] It should be noted that for this experiments, a standard         influenza strain was used that was specifically adapted to mice         and that was lethal to mice. The scientists reasoned that the         1918 gene probably weakened the lethality for the mice as it         stemmed from a human-adapted strain.

       

[注7] This time, the 1918 genes for hemagglutinin (HA), neuraminidase         (NA) and matrix (M) were used, single and in combination. Only         the combination of the 1918 HA and NA genes caused a dramatic         increase in lethality if compared to constructs containing genes         from a more recent human influenza virus. The scientists concluded:         "These data suggest that the 1918 HA and NA genes might         possess intrinsic high-virulence properties." (Tumpey et         al. 2002:13853)

       

[注8] Letter (4 February 2003) from Robert G. Webster, Professor         of Virology at St. Jude Children's Research Hospital to Stanley         Lemon, Dean, School of Medicine, University of Texas Medical         Branch (UTMB) at Galveston, in support of the UTMB application         to contruct a National Biocontainment Laboratory. Released to         the Sunshine Project under the Texas Public Information Act

       

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コメント
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このサンシャイン・プロジェクトはグリーンピースの資金で運営されているようであり、また、HIVを自然のものとしているところが訳者と意見を異にするが資料として提示する。

       

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        (訳・コメント=HAARP 「阿修羅」HPより)

       

        原文:Recreating the Spanish flu?
        http://www.sunshine-project.org/publications/others/gmoflu.html

       
       
       

        1919年のインフルエンザ大流行はワクチンによって引き起こされた。

       

ジョン・ラッポート

       

        エリノア・マクビーンによって、ほぼ25年ほど前になされたもうひとつの分析がある。以下の引用は彼女の著書「糾弾されたワクチン接種」(Vaccination         Condemned)の第2章からのものだが、全く違った観察が示されている。

       

        私は1918年のインフルエンザ流行の現場をこの目で見た

       

1918 年のスペイン風邪の流行を体験した医者や人々のだれもが、あれは世界的にも前例のない恐ろしい病気だったと言います。ある日心身ともに強健だった人が次の 日には死んでいるかもしれませんでした。その病は、腸チフス、ジフテリア、肺炎、天然痘、小児麻痺といった、第一次世界大戦直後に人々がワクチンとして接 種されることになった諸病に加えて、黒死病(ぺスト)の特徴をそなえていました。事実上すべての人が、1ダースかそれ以上の病気や毒性血清を「種としたも の」を注射されました。そのようにして医者が作った病気が一斉に発生しだしたとき、それは悲惨なものでした。

       

流行は2 年間続きましたが、その勢いは、症状を抑えようとして医師たちがさらに投与した薬の毒性によって保たれました。私が見いだしたかぎりでは、インフルエンザ はワクチン接種を受けた人だけを襲いました。注射を拒絶した人たちはインフルエンザを免れました。私の家族はワクチン接種をすべて拒絶していましたので、 流行期間中も無事にすごすことができました。私たちは、グラハム、トレイル、チルデン、その他の人の健康法から、毒性のあるもので身体を汚染すればそれは かならずや病気につながっていくということを知っていたのです。

       

インフルエンザの最盛期には、学校はもちろん、すべて の店が扉を閉ざしていましたし、ばかげたことに病院までもが、医師や看護婦もまたワクチン接種をうけていたのでインフルエンザで倒れて、閉鎖されるという ありさまでした。そんなわけで、医者もいない中、私たちの両親は、少しでも病人の世話が出来ればと家々をまわっていました。もしも細菌、バクテリア、 ヴィールスやバチルスといったものが病気の原因になることができるのなら、私たちの両親は一日に何時間も病人と同室していたのですから、感染する機会はい くらでもあったわけです。しかし、彼らはインフルエンザに罹ることはありませんでしたし、また、病原菌を持ち込んで私たち子供にうつすということもなく、 何も引き起こしはしませんでした。私たちの家族は、深い雪の積もるその冬の間中、誰一人としてインフルエンザはおろか鼻風邪にさえかかる者もありませんで した。

       

1918年のインフルエンザ大流行は世界中で2000万人もの人を殺したと言われています。しかし、実際には、 医師たちがいいかげんで致死的な処置と薬によって殺したのです。これは厳しい告発ですがそれでも、薬品を用いない医者と、そうでない一般の医者と、どちら が成功したかという比較で判定すれば、それが真実なのです。

       

「メディカルな」人々や病院が、診ていたインフルエンザ患 者の33%を死なせていた一方で、BATTLE CREEK, KELLOGGそしてMACFADDEN'S HEALTH-RESTORIUM といった「メディカルでない」病院ではほとんど100%の治癒を得ていたのですが、彼らが用いた治療法はといえば、注意深く計画された自然食の食事療法に 続いて、水療法、水浴、浣腸、その他、そして、断食その他いくつかの単純な治療法を施すというものでした。ある「ヘルスドクター」は8年の間一人も患者を 失いませんでした。このように一人の患者も失わなかった「薬を用いない医師」たちの一人による健康治療のめざましい成功例は、少し後で出版される、この本 の他の部分(タイトルはVACCINATION CONDEMNED)で示されるでありましょう。

       

もしも「メディカルな」医師たちが「薬を用いない医師」たちと同じくらい高度であったならば、そのような2000万もの「メディカルな」インフルエンザ治療による死はなかったことでしょう。

       

ワ クチン接種を受けた兵士たちの間には、それを受けなかった市民の間でよりも、7倍の病気がありました。しかもそれらの病気はその予防としてワクチン接種さ れたものだったのです。1912年に海外から引き上げてきたある兵士は私に、陸軍病院は小児麻痺患者でいっぱいで、大の大人がなんで子供の病気に罹らなく ちゃならないんだと思った、と話してくれました。今では私たちは、麻痺はワクチンの毒性による後遺症であることを知っています。家にいる者たちが麻痺に罹 ることは、1918年にワクチン接種の世界的なキャンペーンがおこなわれる前にはなかったことです。

       

        (訳=縞蘇鉄 「阿修羅」HPより ※原題は『インフルエンザ:1918年と現在』)

       

        原文:THE FLU: 1918 AND NOW
        http://www.nomorefakenews.com/archives/archiveview.php?key=1851

       

参照:The Spanish Influenza Epidemic of 1918 was caused by vaccinations
        http://www.whale.to/vaccine/sf1.html
        (Swine Flu Expose by Eleanora I. McBean, Ph.D., N.D.)

       
       
       

        ロシアの科学者が表明:SARSウイルスは兵器研究所で創られた

       

アカデミー会員のコレスニコフ氏が語った:非定型型肺炎のSARSウイルスは人工的に創り出されたものだ

       

IRKUTSK, April 10, 2003.
        RIA Novosti correspondent Alexander Batalin

       

異常な肺炎(SARS)のウイルスは、おそらく生物兵器として、人工的に創り出されたものだと、ロシア医学アカデミーのセルゲイ・コレスニコフ氏は確信している。

       

彼は木曜日(10日)にシベリアのイルクーツクで行なわれた記者会見で、この説を発表した。

       

コ レスニコフ氏によれば、この非定型性肺炎ウイルスは、2種類のウイルス(麻疹[はしか]と流行性耳下腺炎[おたふくかぜ]のウイルス)を合成したもので、 自然界ではこうした合成ウイルスが生まれることはありえない。こうした合成は、実験環境においてのみ実現できるものだと、このアカデミー会員の学者は考え ている。彼はさらに、生物兵器を創り出す際には、かならずそのウイルスへの予防薬として抗ウイルスワクチンも作ることになっている、と述べた。だからこの 異常な肺炎に関しても、治療薬がたぶんもうすぐ登場してくるだろう、と彼は見ている。このウイルスは研究室から「ずさんな管理のせいで漏れだした」せい で、意図せざる結果として拡がってしまった可能性もあると、彼は考えている。

       

Source: Russian Information Agency: Novosti

       

        (訳=佐藤雅彦 「阿修羅」HPより)

       

        原文:Russian Scientist: SARS Virus Was Created In A Weapons Lab
        http://www.informationclearinghouse.info/article2848.htm

       
       
       

【関連記事】

       

スペインかぜのウイルスはブタと人間の合の子だった?
        1918年から19年にかけて世界的に大流行し、2000万人の死者を出したインフルエンザ「スペインかぜ」。人類の歴史で最悪の疫病の1つだったが、その原因ウイルスの正体については、いまもなぞが多い。
        オーストラリアのキャンベラにある豪国立大学の科学者たちは、スペインかぜの原因となったウイルスに強力な毒性を与えたのは、ブタと人間のインフルエンザ・ウイルスの合体によってつくられたハイブリッド遺伝子だったと発表した。
スペインかぜの原因となったウイルスは、発生時には保存されなかったが、このかぜで死亡した女性の遺体が、アラスカの永久凍土に埋められていていることが わかり、これを97年に米国の科学者が発掘して、そこから遺伝物質を採取した。また、このかぜで死亡した2人の米兵の遺体の一部が標本として残されてい た。
これらを材料として、ギブス博士らは、スペインかぜのウイルスの遺伝子の1つが、大流行の直前に人間と豚に流行していた2種類のインフルエンザ・ウイルス の遺伝子が組み替えられて、できたものだと突き止めた。異なるウイルスのハイブリッドだったために、「人間の免疫システムは、新型ウイルスを識別できず に、歯止めをかけられなかった」とギブス博士は語っている。(日経ヘルス 2001/09/18)

       

スペインかぜウイルス再現
       
◆東大グループが成功、テロ悪用の可能性警告
        1918年に大流行し、全世界で2000万人以上が死亡したインフルエンザ「スペインかぜ」の性質を持つウイルスを作り出すことに、東京大学医科学研究所のグループが、海外の実験施設で成功した。
        マウスに感染させたところ、肺が出血するなど強い病原性が確認された。長い間、謎だったスペインかぜの毒性の秘密に迫る一方、インフルエンザがバイオテロに悪用される可能性を警告するものとして注目される。
        スペインかぜは、短期間に肺に水がたまるなどして呼吸困難に陥り、死亡するケースが多く、インフルエンザの中でも病原性の強いウイルス。この流行で米国人の平均寿命は10歳以上も下がったと言われる。
        強い病原性の理由は不明だったが、99年以降、当時の患者の保存組織などから、8個の遺伝子のうち、4個の配列が判明した。
同研究所の河岡義裕教授と高田礼人助手らは、厳重な密閉性を持つカナダの実験施設で、4個の遺伝子のうち、ウイルスが感染する際などに重要な働きをする2 個の遺伝子を、現存のインフルエンザウイルスに組み込んだ。この結果、マウスに肺炎を起こすだけだったウイルスの病原性がさらに強くなり、肺の組織が出血 を起こすことが確認された。
        河岡教授は「テロの危険性を考え、ウイルスの遺伝情報をどこまで公開するべきかをきちんと議論する必要がある。また、ワクチンの大量生産や抗ウイルス薬を備蓄する体制整備が必要だ」と話している。(読売新聞         2002/10/21)

       

スペイン風邪は鳥ウイルス 小変異で人への感染力獲得
1918年に世界で大流行し、4000万人以上の死者を出したとされる「スペイン風邪」を引き起こしたインフルエンザウイルス(H1N1型)は、遺伝子的 には鳥のウイルスで、わずかな変異で人への感染能力を獲得したとの研究成果を、米ハーバード大などの2グループが6日付の米科学誌サイエンスに発表した。
        アジアで起きている高病原性鳥インフルエンザウイルス(H5N1型)の人への感染の秘密を解き明す上で、大きな役割を果たしそうだ。
        スペイン風邪のウイルスは、アラスカの永久凍土に埋葬された当時の犠牲者の遺体などから分離され、既に遺伝子配列も分かっている。
        ハーバード大のグループはこのデータから、標的の細胞に取り付く際に働く、ウイルス表面に突き出たヘマグルチニン(HA)という部分の立体構造を解析し、鳥インフルエンザウイルスのHAと比較した。
        その結果、わずか数カ所のアミノ酸が置き換わっているだけで、鳥のウイルスと分類できると分かった。ただ、この変異で、立体構造が人間の細胞に取り付きやすいよう変化していた。グループは「これが大流行した原因かもしれない」としている。(共同通信         2004/02/06)

       

2000万人が死んだ1918年の風邪は鳥のウイルスから=米科学誌
【ワシントン5日】世界で約2000万人の死者を出した1918年のインフルエンザは鳥のウイルスが若干変化して人間の細胞に極めて容易に結び付くように なったために起きた可能性が大きいとの論文が5日、米国の科学誌サイエンスのウェブサイトに掲載された。この研究は現在起きている鳥インフルエンザには直 接当てはまらないが、研究者たちはインフルエンザ・ウイルスの伝染力が少し変わっただけで大規模な疫病が発生する可能性を浮き彫りにするデータだと言って いる。
論文はハーバード大学の故ドン・ワイリー氏、英国立医学研究所のジョン・スケヘル氏らの長期にわたる国際的な研究を詳細に紹介したもので、これら科学者た ちは1918年のインフルエンザのゲノムの一部の配列を決定することができた。研究の主眼は1918年のウイルスのタンパク質のヒーマグルティニン(血球 凝集素)がどのようにして人間の細胞のレセプターと結合し、鳥インフルエンザのウイルスの特性を維持できるのかを理解することに置かれた。
        スケヘル氏は、現在の鳥インフルエンザが人から人に感染する形で拡大していないのはヒーマグルティニン構造が人間を効果的に感染させるほど進化していないためではないかと想像している。〔AFP=時事〕         (時事通信 2004/02/06)

       

強毒性のウイルスを再現 世界で猛威のスペイン風邪 新型の流行
【ワシントン5日共同=吉本明美】1918―19年の世界的大流行で2000万―5000万人が死亡したとされるインフルエンザ「スペイン風邪」のウイル スを、遺伝子工学の手法を使って再現することに、米疾病対策センター(CDC)などが5日までに成功した。
マウスへの感染実験で、これまで謎だった強い毒性の発揮に関与する遺伝子も絞り込んだ。現在アジアで猛威を振るい、人間での大流行も「時間の問題」と懸念 されているH5N1型ウイルスと共通する遺伝子変異があることも分かり、研究グループはワクチンや治療薬の開発で新型インフルエンザの大流行に備えるため の重要な成果としている。
        だが一方、危険なウイルスの再現が可能となったことで、悪用や流出を懸念する声も高まりそうだ。CDCは「厳重な管理下で実験した」としている。
スペイン風邪は流行当時の完全なウイルスが保存されておらず、アラスカの永久凍土に埋葬された犠牲者の肺からウイルスの遺伝子を回収、解読を進めてきた。 8種類ある遺伝子のうち、米軍病理学研究所のチームが残っていた3種類の解読を終了。CDCはこれらの遺伝子配列を基に、遺伝子からウイルスを丸ごと合成 する手法で再現した。
        強い毒性に関与していたのは、ウイルス表面にある糖タンパク質の遺伝子1種と、ウイルスの増殖に不可欠な「ポリメラーゼ」と呼ばれる酵素の遺伝子3種。
        この酵素の遺伝子は鳥のインフルエンザウイルスがわずかに変異したもので、変異の一部は、H5N1型ウイルスと共通だった。研究チームは、いずれもウイルス増殖の効率が上がり、強毒性につながるのではないかとみている。
        研究結果は、6日付の英科学誌ネイチャー、7日付の米科学誌サイエンスに掲載される。(共同通信 2005/10/06)

       

利益が危険上回ると判断 手法は日本人が開発
        【ワシントン5日共同】スペイン風邪のように過去に多数の死者を出したウイルスを再現することには、過失による流出や悪用への懸念からその是非について議論がある。
しかし米当局は今回、「公衆衛生上の利益が悪用の恐れをはるかに上回る」(米サイエンス誌)と判断。解読結果に加え、再現ウイルスの特徴なども公表し、研 究促進を優先させた。アジアで流行中の鳥インフルエンザ(H5N1型)が徐々に人での感染を広げ、新たな世界的大流行につながる恐れが強いことを重視した 結果だ。
今回のスペイン風邪のように、遺伝子からウイルスを合成する手法は「リバースジェネティクス」と呼ばれ、遺伝子工学の発展で可能になった。完全なインフル エンザウイルスの再現は、日本の河岡義裕(かわおか・よしひろ)東京大医科学研究所教授が初めて成功した。
        毒性の強いウイルスを扱うには外部に決して漏らさない厳重な防護措置が不可欠で、同教授は設備が整ったカナダで実験している。今回の研究チームも防護に万全の態勢をとったと強調している。

       

<ス ペイン風邪> 第1次大戦末期の1918年に出現、翌年まで流行したA型インフルエンザ(H1N1型)。世界で2000万―5000万人の死者を出したと 推定され、日本でも約50万人が死亡したといわれる。激しい症状が特徴で、口と鼻から血の泡を出して死んでいった患者もいたとの記録がある。通常のインフ ルエンザ流行では乳幼児、高齢者が犠牲になることが多いが、スペイン風邪では青年や壮年の死者が多かったのが特徴。(共同通信 2005/10/06)

       

スペイン風邪のウイルス、鳥インフルエンザから変異
1918~19年に世界で大流行し、2000万~5000万人の死者を出したとされるインフルエンザ「スペイン風邪」のウイルスを、遺伝子工学の手法で再 現することに、米陸軍病理学研究所や米疾病対策センター(CDC)などのグループが成功した。新薬開発などに役立つと期待される一方、技術の悪用を心配す る声も出ている。
        成果は英科学誌ネイチャー6日号と米科学誌サイエンス7日号にそれぞれ発表される。
        スペイン風邪のウイルスは完全な形では保存されておらず、健康な成人が次々に犠牲になるほどの強い毒性を示した理由がはっきりしていなかった。
        研究グループは、アラスカの永久凍土に埋葬された犠牲者の遺体から遺伝子を回収。塩基配列を解読し、ウイルスを再現した。
        その結果、鳥インフルエンザウイルスに似ており、大流行直前に変異してできたものと考えられるという。変異の一部は現在、アジアで大流行している強毒性の鳥インフルエンザウイルス(H5N1型)とも共通していた。
        57年のアジア風邪や68年の香港風邪のウイルスは、鳥と人のウイルスが混じり合ってできたと考えられているが、スペイン風邪には人のウイルスとの混合を示す特徴はなく、鳥のウイルスが直接人に広まったものだったとしている。
        また、再現したウイルスをマウスに感染させる実験で、強い毒性にかかわっていたのは「ポリメラーゼ」と呼ばれる酵素の遺伝子3種類など、計4種類の遺伝子だと分かった。
今回の研究は、新しいワクチンや治療薬の開発、新型インフルエンザ発生の備えにつながるとみられる。ただ、殺傷能力の高いウイルスが流出したり、悪用され たりする危険性もあり、研究グループは「ウイルスは厳格な安全基準とセキュリティーの管理下にある」としている。(朝日新聞 2005/10/06)

       

再現スペイン風邪ウイルス、民間機関にも提供 米CDC
米疾病対策センター(CDC)は、遺伝子工学の手法で再現したインフルエンザ「スペイン風邪」のウイルスを、民間研究機関に提供する方針を決めた。10日 発行の英科学誌ネイチャーが報じた。これまで、外部に提供しないとしていたが、方針転換した。再現ウイルスはワクチンや治療薬の開発に役立つと期待されて おり、提供を望む研究者の意向に応えた形だが、専門家からは「流出や盗難の危険が増す」と心配する声も出ている。
        CDCは、安全対策がとられた民間研究機関に限り、登録制で、殺傷能力の高い病原体を提供している。ネイチャーによると、スペイン風邪の再現ウイルスも先月20日、この提供病原体のリストに加えられた。
        提供病原体は一般の宅配便などで研究機関に運ばれる。AP通信によると、登録研究機関は約300で、すべて米国内にあるという。
スペイン風邪は1918~19年に大流行し、世界で2000万~5000万人の死者が出た。CDCなどのグループは先月5日、このウイルスの再現に成功し たと発表。その際、再現ウイルスに接触できるのは研究リーダーだけで、外部提供はしない、などと説明していた。(朝日新聞 2005/11/10)

       

スペイン風邪ウイルス、生物兵器転用の恐れ…米が登録
【ワシントン=笹沢教一】米疾病対策センター(CDC)が先月、強力な新型インフルエンザの対策を研究するとの理由で、1918年に猛威を振るったスペイ ン風邪ウイルスを遺伝子工学を用いて再現し、その後、生物兵器に転用の恐れがある「指定病原体リスト」に登録していたことが25日明らかになった。
        人のインフルエンザで同リストに記載されたのは今回が初めて。このリストは、病原体や毒素が生物兵器としてテロに悪用されるのを防ぐため、96年に制度化され、2001年の炭疽(たんそ)菌騒動を機に制度が拡充された。
        登録された病原体を所有する施設は出荷などの記録を保存し、査察にも応じなければならない。
        リストには、天然痘や炭疽菌、エボラウイルス、リシンなど70種以上が記載され、中国などで拡大している高病原性鳥インフルエンザは登録されていたが、人のインフルエンザは含まれていなかった。(読売新聞         2005/11/26)

       

「スペインかぜ国内死者は45万人」 慶大名誉教授が新説
1918~21(大正7~10)年に世界で猛威をふるったインフルエンザ(スペインかぜ)で国内では約45万人が死亡した、とする新説を速水融・慶応大名 誉教授(歴史人口学)が出した。世界保健機関(WHO)の手法を応用した推定で、旧内務省の記録より2割近く多い。新型インフルエンザ発生が懸念されるな か、当時の大流行の様子を正確に知る手がかりとして注目されそうだ。
        スペインかぜでは世界で4000万人が死亡したと推定される。日本での流行は3波あり、旧内務省衛生局の報告書は、合計で患者2380万4673人、死者38万8727人としている。
過去の人口動向の分析を専門とする速水名誉教授は、インフルエンザ流行時に呼吸器疾患の死亡率などが平年より上昇する「超過死亡」という概念に注目。当時 の統計に応用し、スペインかぜによる直接・間接の国内死者数を計45万人と算出した。旧内務省報告書より約16%多い。
        この計算は、インフルエンザの社会的影響を評価するためにWHOが提唱する手法に準じている。大正9年の最初の国勢調査で日本の総人口は5596万だったので、スペインかぜによる死者は124人に1人ほどいたことになる。
        速水名誉教授は「スペインかぜは大きな災害なのに忘れられがち。死者の数は関東大震災(約10万人)を大きく上回り、大正期の日本に大きな影響を与えたことは間違いない」と話す。新説は2月刊行の新著『スペイン・インフルエンザ』(藤原書店)で発表する。
        新型インフルエンザに対する政府の行動計画は、発生時の外来患者は1300万~2500万人、死者は17万~64万人と推定している。(朝日新聞         2006/01/03)

       

「スペイン風邪」免疫異常で重症化 人工ウイルスで実験
世界で大流行した「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザのウイルスが、ウイルスに対抗する免疫機能の異常を引き起こす強い病原性によってサルを死なせ てしまうことを、河岡義裕・東京大医科学研究所教授を中心とする日米カナダの研究グループが実験で示した。18日付の英科学誌ネイチャーで発表する。
1918年から数年間猛威をふるったスペイン風邪は、全世界で4000万人の死者を出したとも言われている。その後、残されていた当時の標本などからウイ ルスの遺伝子配列がわかり、同じウイルスを人工的に作り出せるようになった。グループは、人工ウイルスを生物学的にヒトに近いカニクイザルに感染させ、症 状を調べた。
        ヒトやサルはウイルスに感染すると、その活動を阻止しようとする免疫機能が体内で働く。ウイルスの増殖を阻止するため、インターフェロンというたんぱく質を分泌することなどが知られる。
ところが、この人工ウイルスに感染させたサルの場合、インターフェロンの分泌が抑えられるなどの異常が現れた。その結果、体内でウイルスが増え続けて肺炎 や肺水腫を起こし、死に至ることがわかった。インフルエンザウイルスが、マウスなどに重い症状を起こすことは実験で確かめられていたが、サルの仲間で重症 化の仕組みが確認できたのは初めてだ。
現在、アジアを中心に問題となっている鳥インフルエンザウイルスがヒトに重い症状を起こすのも、同様の仕組みで説明できる可能性がある。河岡教授は「さら に研究を進めることで、鳥インフルエンザや新型インフルエンザの治療に役立てたい」と話している。(朝日新聞 2007/01/18)

       

スペイン風邪:ウイルス再現 免疫異常で増殖、毒性強く
1918年に世界的大流行を起こしたインフルエンザ「スペイン風邪」のウイルスが、各種のインフルエンザの中でも特に毒性が強かった(高病原性)ことを、 東大医科学研究所とカナダ・米国の共同研究グループがサルの実験で示した。感染したサルは免疫反応をうまく起こせず、ウイルスの大量増殖を許して、回復不 能な状態に陥った。18日の英科学誌ネイチャーに論文を発表する。
        同研究所の河岡義裕教授らは、カナダ公衆衛生局のダーウィン・コバサ研究員らと協力し、解明済みの遺伝子配列からスペイン風邪ウイルスを人工的に再現。サル7匹の鼻や気道に注入した。
        その結果、サルは重い肺炎を起こし、呼吸困難に陥った。回復不能となり、それ以上苦しませないため感染8日後に安楽死させたサルは、肺の中に水分が大量にたまり、水死に近い状態だった。
        これに対し、普通のインフルエンザウイルスを感染させたサル3匹は、肺炎を起こさず軽い症状だけで回復した。
免疫の働きを調べると、普通のインフルエンザに感染したサルは、感染直後から体内でウイルス増殖を抑える「インターフェロン」という物質を多く作ってい た。感染8日後には、ウイルスはほとんど検出されなかった。一方、スペイン風邪ウイルスのサルはインターフェロンをほとんど作らず、感染8日後も大量のウ イルスが検出された。
        河岡教授は「サルを殺すほど強いインフルエンザウイルスは他にない。免疫反応の異常は、鳥インフルエンザ(H5N1型)が人に感染した場合にもみられる。悪性のインフルエンザに共通なのかもしれない」と指摘している。【高木昭午】(毎日新聞         2007/01/18)

       
       
       

【関連サイト】

       

1918年の「スペイン風邪」ウイルスを再現(WIRED         NEWS 2005/10/07)

       

「ブタから人工インフルエンザ・ウイルス発見」の謎(WIRED         NEWS 2005/03/08)

       

'Weaponized'         Flu a Threat, Say Health Science Center Experts (Distinctions         2003/08)

       

"Bird         Flu" Similar to Deadly 1918 Flu, Gene Study Finds (National         Geographic News 2005/10/05)

       

Flu         genome sequenced (The Scientist 2005/10/06)

       

Pretext         for more martial law: bird flu (Online Journal 2005/10/06)

       

The         Avian Flu Fright is Politically Timed (GlobalResearch 2005/10/12)

       

US         involved in bird flu conspiracy: Indonesia (ABC Online 2008/02/20)

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2009年4月 1日 (水)

「アウシュヴィッツのガス室」は実在したか?

夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル著
エディション: 単行本
  ナチスドイツが、第二次大戦中、多くのユダヤ人を差別、迫害した事は、明白な史実である。しかし、その歴史について、検証すべき点は残されて居る。具体的 には、(1)ドイツは、ユダヤ人をただユダヤ人であると言ふだけの理由で「絶滅」までしようとした。(2)その手段として、ドイツが「ガス室」でユダヤ人 を処刑した。とするの二つの主張については、「証言」が有るのみで、物的証拠が提示されて居ないのである。それどころか、この二つの主張には矛盾と不合理 が満ち満ちて居る事を、皆さんは、知っておられるだろうか?
 先ず、戦後、これだけ「ドイツはユダヤ人を絶滅しようとした」と言はれて来なが ら、戦後、連合軍がドイツで押収した膨大な戦時中のドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者がその様なユダヤ人の「絶滅」を命じた 文書は、今日まで、一枚も発見されて居ないのである。又、当時のドイツ政府が、その様な「絶滅計画」の予算を計上して居なかった事も判明して居る。そもそ も、青酸ガスを用いたガス室は、アメリカの死刑の経験では、あらゆる処刑法の中で最も高価な、そして危険な処刑法である。その様な方法で「民族絶滅」を企 図したと言ふ話は、根本的に不合理ではないだろうか?そして、その「ガス室」で殺された死体が、法医学者又は病理学者の解剖で確認された事を記した医学記 録が、実は、一つも無いのである。(テレビの資料映像等に有る収容所の死体の山は、発疹チフスなどの病死者の死体である。)こうした客観的物証の欠如か ら、私は、現状では、本書の内容を信じる事が出来無い。

(西岡昌紀・内科医/パレスチナの土地の日に)

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「ガス室」で殺された死体は一体も確認されて居ない,

ホロコースト全史
マイケル ベーレンバウム著
エディション: 単行本
 第二次大戦中、ドイツがユダヤ人を差別、迫害した事は明白な史実である。しかし、ドイツが、「ガス室」で殺人を行なったとする主張に、物証は有るのだろうか?
  皆さんは、テレビのドキュメンタリーなどで、第二次大戦末期から直後の時期に、ドイツの収容所で撮影された死体の山の映像を見た事がお有りだろうと思ふ。 悲惨な映像である。あれらの悲惨な映像が、ユダヤ人が体験した悲劇の断面である事は論を待たない。しかし、ここで重要な事に気が付かねばならない。それ は、あれらの映像は、もちろん、悲惨であるが、実は、発疹チフスなどの病死者の死体であって、「ガス室」で殺された犠牲者の死体ではなかったと言ふ事実で ある。詳細は、木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)や、ロジェ・ガロディー著『偽イスラエル政治神話』(れんが書房新社)等に譲るが、 あれらの死体は、今日、「ガス室」による処刑は行なはれて居なかったとされて居る収容所で連合軍が撮影された映像であり、従って、「ガス室」の犠牲者の死 体が含まれて居る筈が無いのである。では、ドイツが、「ガス室」で人々を殺したとする主張の物的証拠としての、何らかの毒ガスで死亡した死体が、何体確認 されて居たかと言ふと、実は、一体も確認されて居ないのである。即ち、連合国側の病理学者、法医学者が、解剖によって、何らかの毒ガスで死亡したと確認し た死体の記録は、無いのである。「ホロコースト」にはこうした未解明の点が沢山有る。しかし、この本は、それらの問題に答えて居るだろうか?

(西岡昌紀・内科医/パレスチナの土地の日に)

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2009年3月22日 (日)

世界経済支配構造一覧

(2006/12/9現在)内海研究所調べ  赤文字は今回追加のもの。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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2009年3月21日 (土)

まともな人が、NHKにも存在したのだ。

NHK解説委員・長谷川氏の怪死の真相 2009.2.5
▲クリックで拡大
 2001年9月11日のほぼ2ヶ月後の10月15日にNHK解説委員主幹の長谷川浩氏がNHK放送センターで「転落死」していた、とされるニュースを記 憶している人も少なくなったと思う。と言うより、もともと、ほとんどのメディアが大きく取り上げなかったから、いわば「闇に葬られた事件」となり忘れ去ら れた。
  再度、当時の新聞記事を読み直してみると、やはり不審点が多すぎる。たとえば、以下の4点。
(1)死因は「転落死」(2)死亡場所は「NHK放送センターの敷地内」(3)死体の第一発見者は非公開(4)死亡確認と発表のズレ。

(1) と(2)に関連するのだが、転落死の現場であるビルの名称と長谷川氏の服とか靴がどんなものかなどが公開となっている。(3)の発見者は当然、NHK職員 のはずだが、その人物の名前も非公開。コメントもない。(4)の死亡日(15日)と発表日(17日)に2日のズレがあるのもおかしい。

 長谷川氏の自殺の理由が見あたらない。では「他殺」という推論から追及していくと、どうやら長谷川氏のテレビでの発言に起因している、と推察できる。
 長谷川氏はNHKの番組でこう発言した。
「崩壊解体された世界貿易センターの死者には、4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった」と。そして、米国のシナリオ通りに「同時多発テロ」だと決め付けて報道しようとすることに異論を唱えた
  当時の小泉政権は米国ネオコン主導のブッシュ外交に隷属する“売国奴”政府だから、駐日アメリカ大使館を通じて何らかの圧力がかかったとしたら直ちに 「Yes Sir!」と言うがままだったはず。ここで「何らかの圧力」の真意が「長谷川を消せ」だったかどうかは定かではない。ただ、長谷川氏の発言がハイジャック 事件の主犯はアルカイダではなくイスラエル政府が関与していることを想起させるもの、としてネオコンの逆鱗に触れたかもしれない。そして、第2、第3の長 谷川が出ないように“
見せしめ”が必要だったのかもしれない。

                     マッド・アマノ パロディータイムズより

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2009年3月17日 (火)

1919年のインフルエンザ大流行はワクチンが原因

  1919年のインフルエンザ大流行はワクチンによって引き起こされた。 ジョン・ラッポート記。

  2005年10月11日
  
http://www.savethemales.ca

 エリノア・マクビーンによって、ほぼ25年ほどまえになされたもうひとつの分析がある。以下の引用は彼女の著書「糾弾されたワクチン接種」(Vaccination Condemned)の第2章からのものだが、全く違った観察が示されている。

 私は1918年のインフルエンザ流行の現場をこの目で見た

  1918年のスペイン風邪の流行を体験した医者や人々のだれもが、あれは世界的にも前例の無い恐ろしい病気だったと言います。ある日心身ともに強健だった 人が次の日には死んでいるかもしれませんでした。その病は、腸チフス、ジフテリア、肺炎、天然痘、小児麻痺といった、第一次世界大戦直後に人々がワクチン として接種されることになった諸病に加えて、黒死病(ぺスト)の特徴をそなえていました。事実上全ての人が、1ダースかそれ以上の病気や毒性血清を「種と したもの」を注射されました。そのようにして医者が作った病気が一斉に発生しだしたとき、それは悲惨なものでした。

 流行は2年間続きまし たが、その勢いは、症状を抑えようとして医師たちがさらに投与した薬の毒性によって保たれました。私が見いだしたかぎりでは、インフルエンザはワクチン接 種を受けた人だけを襲いました。注射を拒絶した人たちはインフルエンザを免れました。私の家族はワクチン接種を全て拒絶していましたので、流行期間中も無 事にすごすことができました。私たちは、グラハム、トレイル、チルデン、その他の人の健康法から、毒性のあるもので身体を汚染すればそれはかならずや病気 につながっていくということを知っていたのです。

 インフルエンザの最盛期には、学校は勿論、全ての店が扉を閉ざしていましたし、ばかげた ことに病院までもが、医師や看護婦もまたワクチン接種をうけていたのでインフルエンザで倒れて、閉鎖されるというありさまでした。そんな訳で、医者もいな い中、私たちの両親は、少しでも病人の世話が出来ればと家々をまわっていました。もしも細菌、バクテリア、ヴィールスやバチルスといったものが病気の原因 になることができるのなら、私たちの両親は一日に何時間も病人と同室していたのですから、感染する機会はいくらでも有ったわけです。しかし、彼らはインフ ルエンザに罹ることはありませんでしたし、また、病原菌を持ち込んで私たち子供にうつすということもなく、何も引き起こしはしませんでした。私たちの家族 は、深い雪の積もるその冬の間中、誰一人としてインフルエンザはおろか鼻風邪にさえかかる者もありませんでした。

 1918年のインフルエ ンザ大流行は世界中で2,000万人もの人を殺したと言われています。しかし、実際には、医師たちがいいかげんで致死的な処置と薬によって殺したのです。 これは厳しい告発ですがそれでも、薬品を用いない医者と、そうでない一般の医者と、どちらが成功したかという比較で判定すれば、それが真実なのです。

  「メディカルな」人々や病院が、診ていたインフルエンザ患者の33%を死なせていた一方で、BATTLE CREEK, KELLOGGそしてMACFADDEN'S HEALTH-RESTORIUM といった「メディカルでない」病院ではほとんど100%の治癒をえていたのですが、彼らが用いた治療法はといえば、注意深く計画された自然食の食事療法に 続いて、水療法、水浴、浣腸、その他、そして、断食その他いくつかの単純な治療法を施すというものでした。ある「ヘルスドクター」は8年の間一人も患者を 失いませんでした。このように一人の患者も失わなかった「薬を用いない医師」たちの一人による健康治療のめざましい成功例は、少し後で出版される、この本 の他の部分(タイトルはVACCINATION CONDEMNED)で示されるでありましょう。

 もしも「メディカルな」医師たちが「薬を用いない医師」たちと同じくらい高度であったならば、そのような2千万もの「メディカルな」インフルエンザ治療による死は無かったことでしょう。

  ワクチン接種を受けた兵士たちの間には、それを受けなかった市民の間でよりも、7倍の病気がありました。しかもそれらの病気はその予防としてワクチン接種 されたものだったのです。1912年に海外から引き上げてきたある兵士は私に、陸軍病院は小児麻痺患者でいっぱいで、大の大人がなんで子供の病気に罹らな くちゃならないんだと思った、と話してくれました。今では私たちは、麻痺はワクチンの毒性による後遺症であることを知っています。家にいる者たちが麻痺に 罹ることは、1918年にワクチン接種の世界的なキャンペーンがおこなわれる前にはなかったことです。

引用終わり。

すべて仕組まれたこと。何のためか。金儲けと、人口削減のためです。今も継続中。

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2009年2月28日 (土)

第1章 「マルコポーロ」廃刊事件--「アウシュウィッツ『ガス室』の真第1章 「マルコポーロ」廃刊事件--「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」

http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/194.html

投稿者 西岡昌紀 日時 2009 年 2 月 23 日 00:58:19: of0poCGGoydL.

--「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか

第1章 「マルコポーロ」廃刊事件

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イスラエルのガザ空爆・侵攻から2か月が経とうとして居ます。

報道は減りましたが、医療状況の悪化をはじめとする現地ガザの民生の状況には、深い憂慮を抱かずに居られません。
--報道の減少は、逆に、国際社会の関心の低下を招くのではないかと憂慮して居ます。イスラエルのガザ侵攻と、それによって生じたおびただしい民間人の被害に対する私の抗議として、特に、何の罪も
無い子供たちの被害に対する私の講義として、私の著作である 『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)の一部(第一章)の全文をお送りします。ピペによる転送、転載を歓迎します。以下の文章の一部分でも全体でも、自由に御利用下さい。ただし、文章の変更は
お断り致します。文献参照、写真、グラフ、図、などは、労力の問題と技術的理由から、割愛させて頂きましたので、
御覧になりたい方は、本の実物で御覧下さい。

イスラエルのプロパガンダである「ナチのガス室」をまだ信じて居る御友人、御知人などにメールとして転送される事や、
各種掲示板に貼り付けて下さる様、お願い申し上げます。--イスラエルがガザで行なった民間人殺戮への抗議活動として、
そして、民生状況の劣悪化への抗議として、御協力をお願ひ申し上げます。

これは、私のインティファーダです。


http://spn05738.co.hontsuna.com/article/1059522.html
(この本についてのサイトです)

2009年2月23日(月)

                      西岡昌紀

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%80%8C%E3%82%AC%E3%82%B9%E5%AE%A4%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E8%A5%BF%E5%B2%A1-%E6%98%8C%E7%B4%80/dp/4817403934/ref=cm_cr_pr_product_top

(以下本文)
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(コピペによる転送・転載を歓迎します)
 

                    第一章  「マルコポーロ」廃刊事件

  はじめに、自己紹介をさせて頂こうと思います。私は、内科の医者であり、政治的には「右」でも「左」でもない無党派の一人です。生まれたのは1956年で すから、全共闘世代よりは下の世代です。その私がこの本を書く切っ掛けになった或る事件のことから、話を始めたいと思います。その事件とは、1995年の 1月から2月にかけて起きた「マルコポーロ」廃刊事件という事件です。この事件は、同誌二月号に掲載された或る記事を切っ掛けにして、大きな騒ぎが起こ り、同社が「マルコポーロ」誌を廃刊にしたという事件なのですが、皆さんは、この異常な事件を記憶しておられるでしょうか?その記事とは、私が執筆した 「戦後世界史最大のタブー・ナチ『ガス室』はなかった」という記事で、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」は、その95年2月号に、私のこの記事を掲載し ました。ところが、私のこの記事に対して、或る団体(後述)が広告ボイコットという手段を用いて文芸春秋社を攻撃し、同時に日本政府に直接抗議するという 行動を取りました。それが切っ掛けとなって、文芸春秋社は「マルコポーロ」を突然、廃刊することとしたのですが、このことは当時大きく報道されたので、御 記憶の方も少なくないと思います。

 即ち、私のこの記事が載った「マルコポーロ」が発売されたのは、阪神大震災が起きたのと 同じ95年1月17日のことでした。ところが、これが発売されると、私のこの記事に反発したイスラエル大使館及びアメリカのシオニスト団体サイモン・ ウィーゼンソール・センターは、文芸春秋社に対して強い抗議を展開し始めました。記事の大意は、「はじめに」でも少し述べたように、ドイツが第二次世界大 戦中ユダヤ人を迫害したこと自体は明白だが、「ガス室」によって「ユダヤ人絶滅」を行なったとする通説には全く根拠がなく、ユダヤ人たちには全く別の悲劇 があったとするものでした。即ち、私は、ナチスドイツがユダヤ人を差別したことも、収容所に収容したことも、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人を弾圧したこ とも、ソ連戦線でユダヤ系の非戦闘員を多数処刑したことも、全く事実だと考えています。これらの事柄は、それらの細部については検証が必要だと思います が、基本的には全く事実だと認識していますし、収容所でユダヤ人に対する虐待があったこと自体も否定するつもりなどはありません。しかし、いわゆる「ガス 室大量殺人」と「ユダヤ人絶滅計画」という二つの話に限って言えば、異議を唱えないわけにはいかないのです。それは、ナチスを「弁護」するというようなこ とではなく、ただ単純に、それが事実とは考えられないからです。理由は後で詳しくお話しするとして、結論から言うと、私は、戦後永い間信じられてきた「ガ ス室」の話は、連合軍が戦争中行なっていた戦時宣伝が戦後、検証されぬまま「歴史」に転化したものだったとしか思えないのです。真実は別にあったというの が私の主張ですが、それは、ユダヤ人があの時代に苦しまなかったということではなく、全く別の悲劇があったということなのです。その「別の悲劇」とは何 だったのか。私は、「マルコポーロ」の記事において、大旨、以下のように論述しています。

(一)ナチスドイツは、確かにユダヤ人を 差別迫害した。このこと自体には一点の疑いの余地もない。しかし、言われているように、ユダヤ民族を「絶滅」することまでは計画していなかった。「ユダヤ 人問題の最終的解決」と呼ばれるドイツの計画の実体は、実はユダヤ人を絶滅することではなく、ヨーロッパの全ユダヤ人を戦後、ソ連な領内などに強制移住さ せようとするものだった。(それは、もちろん不当なことである)。
(二)そうした「ユダヤ人強制移住計画」の準備として、ドイツは、アウシュ ウィッツ他の収容所にユダヤ人を収容した。また、ドイツは、それらのユダヤ人を戦争中、戦時下の労働力として利用した。ところが、ソ連戦線でドイツが敗退 した結果、こうした強制移住計画は頓挫する。その間、戦争中の衛生状態悪化から、それらの収容所ではチフス等の疾病が大発生し、戦争末期に多くのユダヤ人 が悲劇的な死を遂げた。
(三)ところが、こうした悲劇の後、ナチスの収容所を解放した連合軍は、そうした疾病によるユダヤ人他の死体を「ガス 室」の犠牲者ででもあったかのように宣伝した。連合国は、戦争中から、戦時宣伝の一環として、「ドイツが収容所で大量殺人を行なっている」、または、「ド イツの収容所には大量殺人用のガス室が作られている」等の宣伝を行なっていたが、戦後、こうした映像などによって世界中が「ガス室」の存在を信じるに至っ た。そして、戦後の歴史家やジャーナリストの大部分がこうした事柄の検証を怠った結果、「ガス室」の存在は「疑いようのない事実」とされることとなった。

 驚かない方はおられないと思います。また、「そんな馬鹿な!」とお怒りになる方もおられるのではないかと思います。ですが、どうか、最後までお読みになって下さい。右(上)の結論には、皆さんが驚くほど多くの理由があるのです。もし違うとおっしゃるのであ
れば、是非、反論を示して頂きたいと思います。そして、その際、必ず証拠を示して頂きたいと思いますが、証拠が示されない限り、
私は、「ガス室によるユダヤ人絶滅」が行われたという主張を信じることはできません。(「ユダヤ人虐殺」の否定ではないことに注意)
  まず、右(上)に要約した結論(見解)は、私の個人的推理などではありません。これらは、多くの一次資料に基ずいて、過去数十年間、アメリカやヨーロッパ の研究者たちが研究し、立証してきたことから論理的に導かれる「結論」です。この後詳しくお話ししますが、欧米では、「ドイツがユダヤ人絶滅を企てて『ガ ス室』大量殺人を行なった」とする「歴史」に、今、強い疑問が広がりつつあるのです。そうした疑問を投げかける人々のことを「ホロコースト・リビジョニス ト(ホロコースト見直し論者)」と呼び、彼らの研究や主張を「ホロコースト・リビジョニズム(ホロコースト見直し論)」と呼びます。しかし、この呼び名を 名乗らない人々の中にも、同様の主張をしている人は多数存在し、その広がりは、特定の政治的党派や民族とは一致しません。つまり、これは政治運動ではない のです。私は、1989年頃、彼らの存在を知りました。そして、非常に驚かされた後、徐々に文献を集め、彼らの研究内容とそれに対する欧米の「定説」側主 張を数年に渡り、仔細に検討してきました。その結果、私は、彼ら「ホロコースト見直し論者」たちの論拠が非常に正確であることに驚かされたのです。そし て、逆に、従来の「定説」は、実はその内容が矛盾に満ちており、かつ、科学的に不合理であるを知ったのですが、これは、私にとって衝撃的なことでした。皆 さんと同様、私もアウシュウィッツに「ガス室」が存在したことを疑ったことなど全くなかったからです。しかし、両論を公平に比較検討すると、私が聞かさ れ、信じてきた「アウシュウィッツのガス室」は実は存在しなかったと考える他なさそうなのです。その理由はこれから詳しくお話ししますが、もし誰かが、そ うした「定説」の数々の不合理を説明し、科学的証拠を示すなら、私は今すぐにでも、「ユダヤ人絶滅」と「ガス室大量殺人」の存在を受け入れます。「定説」 をあえて「否定」しないと言ったのは、そういう意味です。しかし、そういう説明や証拠の提示をしてくれる人は、どうも見当たらないのです。「そんな馬鹿 な!」と思われると思いますが、それについて詳しくお話しする前に、まず、皆さんが全く御存知ないと思われる、こうした議論の歴史的経緯についてお話しし ようと思います。

 「マルコポーロ」廃刊事件以来、私は色々な方と対話を続けてきましたが、そこで感じたこと は、私の話に感情的に反発する方がとても多いということでした。感情的に、です。全ての人がそうではありませんが、感情的に反発する方がとても多いので す。これは、日本人の多くが、アウシュウィッツなどでドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとし、「ガス室」による大量殺人を実行したとする「歴史」を疑った ことなどないからだと私は思います。現に、この「歴史」に実は疑問を投げかけられていることも御存知ない方が圧倒的に多く、仮にこうした論争の存在そのも のは知っていたとしても、「そんなことを言うのは、ネオナチか何かだろう」等と思っている方が非常に多いのです。私自身そうだったから、そういう気持ちは よく分かるのですが、まず、次のことからお話ししようと思います。今日多くの人々は、「ナチのガス室」を信じて疑いません。しかし、その「ナチのガス室」 については、実は、戦争直後から強い疑問が投げかけられていたのです。決して、最近、疑問が投げかけられ始めたのではなく、戦争直後から強い疑問が投げか けられていたのです。それを無視してきた最大の力はマスメディアなのですが、その問題については後でお話しするとして、先ず、次の事実に注目して頂きたい と思います。そうした疑問を最初に投げかけたのは、皆さんが想像するかも知れない「ネオナチ」とかその類の人々ではなく、実は、ナチスの被害者たちだった のです。このことに、まず注目して頂きたいと思います。例ええば、「ガス室によるユダヤ人絶滅」に異論を唱えた事実上、最初の歴史家は、ポール・ラッシニ エ(Paul Rassinier)というフランスの歴史家です。ところが、このラッシニエがどういう人物だったかと言うと、何と、戦争中、反ナチ・レジスタンスに加わ り、ナチスの強制収容所に入れられていた左翼の知識人なのです。つまり、ナチスの迫害を受け、自身がドイツの強制収容所に入れられていた人物が「ガス室に よるユダヤ人絶滅」に異論を唱えた事実上最初の歴史家だったということですが、今まで皆さんは、こういうことを御存知だったでしょうか?

  このラッシニエは、元は歴史と地理を教える教員で、戦前フランスで、初めは共産党に入党し、その後、社会党員になった人物でした。ラッシニエはまた、いか なる暴力をも否定する絶対平和主義者として知られていました。ですから、彼は、政治的にはナチズムとは全く対極の立場に在ったわけで、しかも収容所生活を 自ら体験した人物が「ガス室によるユダヤ人絶滅」に異論を唱えたことに注目して頂きたいのです。
 ラッシニエは、第二次大戦でフランスがドイツに 占領されると、北フランスで直ちにレジスタンス活動に参加しました。ラッシニエのレジスタンス活動は彼の思想を反映して非暴力主義的なものでしたが、それ には、例えば、スイスに脱出するユダヤ人を手助けするというような活動が含まれていました。ラッシニエのそうした活動は、やがてナチスの秘密警察ゲシュタ ポにより察知され、ラッシニエは逮捕されることとなります。そしてラッシニエは、ドイツ本国のブーヒェンワルト収容所およびドーラ収容所に送られ、ドイツ で終戦を迎えますが、フランス政府は戦後、彼のこうしたレジスタンス活動を讃えて、ラッシニエに最高位の勲章を授与しています。ですから、もうお分かりの ように、このラッシニエくらい、ナチズムからかけ離れた人物は見当たらないのです。そのラッシニエが、もう一度言いますが、「ガス室によるユダヤ人絶滅」 に正面から異論を提出した最初の歴史家だったのです。このことに、先ず注目して頂きたいと思います。

 このラッシニエが、戦後間も なく「ガス室によるユダヤ人絶滅」に異論を唱えた背景に、彼自身の収容所体験があることは余りにも明らかです。つまり、戦後ニュールンベルク裁判やマスメ ディアによって語られ出した収容所像は、ラッシニエが自分で見て体験した収容所の実像とはかけ離れたものだったということです。それが元レジスタンスの ラッシニエにこのような異論を唱えさせることになったわけですが、皆さんは、このことをどうお考えになるでしょうか?私は、皆さんにこのことを強く意識し て頂きたいと思います。それは、私たち日本人が戦後ずっと信じ続けてきた「ナチスの収容所」のイメージもまた、ラッシニエを驚かせたニュールンベルク裁判 や戦後メディアの語ってきたものだったからに他なりません。つまり、私たち日本人が信じてきた「ナチスの収容所」のイメージの基礎に、実は、ナチスの被害 者が、戦争直後、異論を唱えていたということなのです。詳しくは、これからの本論で論じることとしましょう。いずれにせよ、皆さんの多くは、これまでこう いうことを全く御存知なかったのではないかと思うのです。

 ラッシニエの他にも、やはりナチスの迫害を受けて収容所 に入れられていたフランスの左翼知識人ミシェル・ド・ボユアール(Michel de Bouard)なども広く信じられている収容所のイメージに異論を唱えています。また、ブルグ(Burg)というユダヤ人は、収容所生活は経験していませ んが、戦後間も無い時期にポーランドで収容所を実際に訪れるなどして、やはり、今日広く信じられている「ガス室によるユダヤ人絶滅計画」という話に否定的 な見解を表明し続けているのです。このように、日本では全く報道されてきませんでしたが、日本人が信じ続けてきた「ガス室によるユダヤ人絶滅」という「歴 史」には、戦争直後から、それもナチスに迫害された側の人々から、異論が唱えられていたのです。ユダヤ人の中からも「ガス室による民族絶滅」への疑問が上 がり続けているこうした「ホロコースト見直し論」の思潮は、しかしながら、戦後永い間、日本でも欧米でも、マスメディアによって圧殺されてきたのです。皆 さんが、今この本を読んで驚いているとしたら、それも、マスメディアが皆さんにこうした議論の存在自体を知らせずにきたからに他なりません。マスメディア が何故この問題を封殺してきたかは後で考えたいと思いますが、前出のラッシニエも、当時フランスのマスメディアによって、その証言と研究を無視され続けて います。それどころか、彼は、フランスのマスコミから大変な攻撃にさらされてしまうのです。こうした状況は、基本的には今日まで続いており、「マルコポー ロ」廃刊事件の背景にもなっているのですが、近年、アメリカやヨーロッパでは、こうしたメディアの圧殺にも拘らず、「ホロコースト」の「定説」に疑問を投 げかける声がますます高まりつつあります。これは、過去数十年間、欧米のホロコースト見直し論者たちが主著してきた事柄が強い説得力を持っている証拠とも 言えますが、そうした人々の中には、今日でもやはり、明らかに反ナチスの立場に属する人々やユダヤ人までが多々含まれているのです。

  例えば最近、フランスのロジェ・ガロディー(Roger Garaudy)という哲学者が「ガス室によるユダヤ人絶滅」に正面から疑問を投げかける著作を発表しています。ところが、このガロディーという人は、フ ランス共産党の理論家として有名だった人なのです。およそ「ナチスの弁護」などとは縁遠い人ですが、さらに重要なことは、ピエール神父という、有名なキリ スト教の神父が、ガロディー氏のこの本を事実上、支持したということです。このピエール神父という人は、ラッシニエと同様、大戦中ユダヤ人を助けたことで 知られ、「(フランス)国内で最も尊敬される人物」(朝日新聞1996年5月8日)とすら言われている人ですが、そのピエール神父までが、「ホロコースト をタブー視せずに、事実を探究すべきである」と発言したのです。(同神父は、後に発言を修正しましたが)このニュースは日本でも報道されたので、ここにそ の記事の一つをお見せしますが、皆さんは、この事実をどうお考えになるでしょうか?

 また、アメリカのプリンストン 大学には、アーノ・メイヤー(Arno Mayer)教授という高名な歴史学者がいます。この人は、ユダヤ人で、かつ、左翼として有名な学者です。また、祖父の一人はナチスの収容所で死亡してお り、自分自身、幼少の頃ナチスを逃れて家族とともにヨーロッパからアメリカに逃れて来たという体験の持主です。ところが、このメイヤー教授が、80年代後 半から、ナチスがユダヤ人を意図的に絶滅しようとしたという従来の「定説」にも否定的な立場を表明しているのです。そして、「ガス室」の存在そのものまで は否定しないものの、アウシュウィッツなどで死亡したユダヤ人の多くは、実は「ガス室」で殺されたのではなく、病気などで死んだのだと主張して、大きな波 紋を投げかけているのです。今挙げた人々は、自分たちのことを「リビジョニスト」とこそ呼びませんが、このような経歴や思想の持主でありながら、「ホロ コースト」の「定説」に正面から疑問を投げかけているわけです。他にも、前出のブルグとか、コウル(Cole)とか、「ガス室」の存在そのものに疑問を提 出しているユダヤ人が幾人もいるのです。(ちなみに、このコウル氏は、「マルコポーロ」廃刊事件の際、私を支援したいと言って、自費で来日して記者会見な どに参加してくれています)

 こういうことを最初にお話ししておくのは、欧米のマスメディアなどが、前述のように、 こうした論議を圧殺しようとする一方で、「ガス室」や「ユダヤ人絶滅」といった事柄に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」や「右翼」だと言わんばかりの キャンペーンを永年に渡って繰り広げてきた状況があるからです。日本でもこうしたことを言う人がいますが、彼らの言っていることと現実の間には大きな差が あることを、私は皆さんに知って頂きたいと思います。「ホロコースト・リビジョニズム(見直し論)」は、政治運動ではありません。ですから、逆に、「ガス 室によるユダヤ人絶滅」に疑問の声を上げる人々の中には様々な党派の人々がいるわけであり、研究者は別として、これを支持する多くの人々の中に右翼的な個 人などがいることは否定しません。しかし、このように、どう考えてもナチスに同情するような個人的背景や信条とはかけ離れた人々--元レジスタンスやユダ ヤ人など--の間から「ガス室によるユダヤ人絶滅」に疑問を投じる声が戦後、何十年にも渡って上がり続けて来た事実を、皆さんは一体どうお考えになるで しょうか?私自身が、「右翼」とか「ネオナチ」といった類の者ではないことは、今さら説明する気もありません。後で詳しく述べますが、これだけ「ドイツは ユダヤ人を絶滅しようとした」と言われながら、実は、ヒトラーが「ユダヤ人絶滅」を命令したことを示すドイツ政府文書は、一枚も発見されて居ないないので す。また、これも後でお話ししますが、連合軍は、ナチスの収容所で、衛生状態の悪化による多数の病死者の死体は発見し、撮影しているものの、肝心の「毒ガ ス」で死亡した死体は、実は一体も発見していないのです。そして、今日、アウシュウィッツなどで「ガス室」の実物として展示されている建物は、本物の処刑 用ガス室としてはその位置や構造があまりにも不合理で、本当に戦争中「ガス室」として使用されていたものとは考えられない。つまり、ポーランドの共産主義 政権かソ連が戦後、捏造したものとしか考えようがないのです。加えて、先ほど述べたこととも関連しますが、「ガス室大量殺人」が行われていたとされる収容 所に入れられていた人々の中には、実は、「ガス室」など見たことも聞いたこともないという人々--ユダヤ人他の人々--が多数いるのです。(後述)詳しい ことは後でお話ししますが、こうしたことが、前述した欧米のホロコースト・リビジョニスト(見直し論者)やそれに近い人々によって、研究、指摘されている わけです。--

 欧米で、これらの人々が、何故「ガス室」や「ユダヤ人絶滅計画」に疑問を投じ、「ホロコース ト」(この言葉の定義は人によって違い、混乱が目立ちます)に関する再検討を唱えているのか、その論拠は、次章以下で詳しくお話し致します。しかし、「マ ルコポーロ」廃刊事件に話を戻せば、私の記事が、こうした欧米での議論の一部を紹介し、私自身の判断を述べ、そして、私にはナチスのユダヤ人政策を支持す るつもりなどないと明快に述べたものであったことは、ここで思い出し、或いは知って頂きたいと思います。あえてこれを言うのは、この廃刊事件の際、「マル コポーロ」が書店で入手しにくくなり、私の記事を読めなかった、という方がとても多いからです。この記事自体については、満足の行かない点や、私の不勉強 から不正確な記述をした部分もありました。後で述べますが、「毒ガス」のチクロンBの物性に関して、それを加熱することも意義を強調し過ぎたことなどがそ うです。(後述)また、本文中での「ホロコースト」という言葉の定義が不正確だったために、誤解を生んだ点もありました。こうした間違いや不明確さについ ては、大いに自己批判をしたいと思います。それから、シリーズ企画の第一弾として書いた記事だったので、意図的に書かなかった論点もありました。しかし、 私の結論は今も同じです。また、ユダヤ人に対して公平な記事であったことは自負しています。ところが、私のこの記事に対して、東京のイスラエル大使館とア メリカのシオニスト団体サイモン・ウィーゼンソール・センター(略称SWC)は、「マルコポーロ」同号発売間もなく、同誌を発行する文芸春秋社に対して抗 議を開始しました。これに対して、「マルコポーロ」編集部(当時、編集長・花田紀凱氏)は、反論のページをすることを申し出ました。しかし、イスラエル大 使館及びSWCは、これを断りました。その理由は明らかではありません。そして、イスラエル大使館とSWCは、記事を書いた私には何も抗議はしませんでし たが、「マルコポーロ」編集部に対しては、ますます強硬な態度を取ったのでした。特に、後者(SWC)からの抗議は激烈で、彼らは、「マルコポーロ」のみ ならず、文芸春秋社全体に強烈な圧力をかけました。その圧力とは、広告ボイコットと呼ばれる手法で、SWCは、文芸春秋社の雑誌に広告を出す内外の企業に 対して、広告の中止を呼びかけたのでした。

 このSWCという団体は、一口に言えば、ユダヤ人社会における過 激なナショナリストで、世界のユダヤ人を代表するような団体とは言えません。彼らは、世界のあちらこちらで、彼らが主観的に「反ユダヤ的」と見なした言動 や個人に攻撃を加えていますが、その「反ユダヤ主義狩り」が余りにも過激なため、ユダヤ人の中にもSWCを批判する人は少なくないのです。後で触れます が、この事件の際、イスラエル大使館とSWCの間には、実は、かなりの距離がありました。それどころか、イスラエル大使館の高官は、SWCのこうした行動 に批判的であったかも知れないのですが、「マルコポーロ」廃刊事件の際、こういうことをはっきり指摘する新聞は、殆どありませんでした。こうした報道のた めに、この廃刊事件の意味そのものが、随分、誤解されたように思えます。もう一つ重要なのは、私が記事の中で言及したポーラン政府の反応です。これも後で 触れますが、私が記事の中で、アウシュウィッツの「ガス室」は、ポーランドの共産主義政権かソ連が捏造したもの、と断定したにも拘わらず、ポーランド大使 館(政府)は何故か全く沈黙し、抗議そのものをしていないのです。一体何故、「ガス室を捏造された」と名指しされたポーランド政府は、抗議も反論もしな かったのでしょうか?

 こうしたことの結果、同年一月三十日、文芸春秋社は突然、「マルコポーロ」の廃刊を決定 しました。文芸春秋社は、記事を書いた私には一言も事前の連絡をしないまま、私の記事内容を全面的に否定する声明を出してこの発表をしましたが、これには 本当に驚きました。言うまでもないことですが、いかなる雑誌であれ、その雑誌が自分で載せた記事を著者に一言も相談せずに否定するなど、普通ならするわけ がありませんし、出版倫理上も許されるわけがありません。ところが、そういうことが現実に起きたのです。こうした当時の経緯については、当時の新聞をお読 み頂きたいと思いますが、事件直後、ジャーナリストの篠田博之氏(月刊「創」編集長)と、江川紹子さんが、雑誌「創」誌上で、それぞれ次のように書いてお られるので、ご紹介したいと思います。
「もし誤りを犯したというなら、少なくとも次号の『マルコポーロ』で徹底的に誌面検証するべきだった。 突然の廃刊は、そうした検証や議論を全て封じ込めてしまったのである。(中略)『週刊金曜日』で本多勝一編集長らが、今回の件で雑誌を廃刊にするなら、南 京大虐殺は幻だったというキャンペーンを張った『諸君!』お廃刊にするべきではないか、と主張しているが、こういう主張が出てくるのは当然だろう。」(篠 田博之「文芸春秋・田中健五社長の憂鬱」・『創』95年4月号)

 また、江川紹子さんは、こう述べておられます。
「第 一に、問題の記事をどう考えるかという点だ。私は前述のように、この記事を支持しない。(中略)第二の問題点は、サイモン・ウィーゼンタール・センターの とった、広告ボイコットという手法についての評価だ。(中略)この点についての私の結論を申し上げる。ウィーゼンタール・センターの今回の手法は、民主主 義のルールを踏み越えていると思う。クーパー師は「広告拒否という強硬手段は異例なことだった。ボイコットは大変深刻な場合のみである「と述べたが、私は その答えでは納得できない。『マルコ』側は反論の機会を用意していた。(それが同じ号に掲載するべきだったことは前述の通りだが)。『マルコ』に西岡氏の 記事の倍のスペースを求めて、同センターが調査したホロコーストの実態を伝えることもできた。あるいは謝罪を求めるにしても、『マルコ』で出された記事に ついては『マルコ』誌上で詫びさせるのがスジだろう。ところが、同センターはなんの交渉もせず、広告主へのボイコット要請を行なった。(私の手元にあるマ イクロ・ソフト宛のボイコット要請文書は1月19日付である)。当初から広告による圧力を行ったのだ。仮に文春あるいは『マルコ』編集部の側に交渉の誠意 がない場合は、このような強硬手段もやむを得ないだろうが、この場合はそうではない。日本の出版社の多くは、広告収入に大きく依存している。文春関係者に よれば、定価五○○円の『マルコ』の場合、広告がまったくなければ一七○○円で売らなければ採算が取れないという。そのうえ、同社の看板雑誌である『文芸 春秋』(同社社内では『本誌』と呼ぶ)にまでボイコットの波が寄せられて来た。広告拒否というのは、一種の力による威圧だ。」(江川紹子「『マルコポー ロ』廃刊事件で何が問われたか」同)
 このお二人が述べていることをどう受け止めるかは、私の見解に対する評価によっても異なることと思いま す。それは、これからの本文を読んで頂いた上で、もう一度考えて頂くこととしましょう。しかし、この時、お二人は、私の見解その物は支持しておられませ ん。それにも拘らず、こういうことを書いておられることに注目して頂きたいのです。即ち、私の意見それ自体には全く賛成していない篠田氏と江川さんが、こ のように文芸春秋とSWCの行動を批判しているのです。だからこそ、お二人の発言には意味があると思います。

 ところが、そ れとは対照的に、当時の新聞や雑誌の多くは、SWCが取ったこの広告ボイコットという手法の是非については、論評を避けています。これは、広告の問題とい うものが、ジャーナリズムにとって、それほど大きなタブーだということなのかも知れません。しかし、それはともかくとして、事件直後に記者会見などで繰り 返し言ったことですが、私は、私の記事に対する批判は喜んで聞き、求められれば、公開討論をするつもりでしたが、この気持ちには、今も全く変わりがありま せん。そもそも、私の記事が間違っているとか、「公正を欠いている」とかいうのなら、堂々と議論をして私を論破すればよいはずです。それこそが、読者の前 で、私の主張が「間違っている」とか、「公正を欠いている」とかいう彼らの主張を証明し、読者を納得させる最善の方法だったはずです。SWCが何故そうし なかったのか、皆さんは、不思議だとお思いにならないでしょうか?

 しかしながら、彼らは、言論による反論を選ばず、前述の ような広告ボイコットという手法を選んだのでした。SWCは、それに加えて、一雑誌の記事に関して日本政府の行動を要求するという、驚くべき行動に出たの ですが、これは、彼らが、日本政府に言論への介入を要求したということです。この驚くべき要求に対して、日本政府が実際に「行動」に出たことは、私自身が 直接に知っていますが、これは、日本政府が、外国の団体に動かされて自国の言論に介入したということです。皆さんは、これを異常なこととお思いにならない でしょうか?(実際、「マルコポーロ」廃刊前後、複数の中央官庁が、私と他の関係者に強い圧力を加えていますが、大部分のマスコミは、このことを報道しよ うとしませんでした。)文芸春秋社が「マルコポーロ」廃刊を決定した直後には、前述の広告圧力だけでなく、さらに複雑な動きが働いていたという分析もあり ます。それは、日本の国連常任理事国入りや、中東での日本企業のビジネスにこの問題が影響することを一部の人々が恐れたことが影響した、といった分析です が、詳しいことは不明です。ただ、私個人は、SWC自身の影響力よりも、日本側関係者の過剰反応が事態の推移を左右したという印象を持っています。例え ば、この広告ボイコットも、SWCのボイコットに応じたのは、意外なことに(?)、外国企業よりも日本企業が多く、また、広告ボイコットが成立しない可能 性も相当あったことを、私は当時の文春関係者から聞いています。これは非常に興味深いことで、「マルコポーロ」廃刊事件に関する最大のタブーは、このよう に、シオニスト・ロビー(SWC)のボイコットに、実は言われているほどの実効力がなかったということの方ではないかと、私は思っています。逆に、日本人 の方が、SWCの影響力を過大に見ていたということで、それを過大に見せたものの一つは、当時の外務省の行動のように思われます。

 SWCや「ユダヤ人」の影響力を過大評価することは、事件当時、顕著に見られたことですが、後で述べるように、私は、この団体(SWC)やシオニスト・ ロビーには、このように、実は一部で考えられているような力はないと思っています。そして、ユダヤ人の影響力に対するそうした過大評価こそが、ユダヤ人に 対する偏見を増大させるのではないかと思うのです。SWCの広告ボイコットは、「マルコポーロ」廃刊の少なくとも切っ掛けにはなりましたが、もし、「マル コポーロ」が廃刊された結果、日本社会の一部に「ユダヤ人は怖い」というような偏見が生まれたとしたら、これほど私や花田紀凱「マルコポーロ」編集長(当 時)の心情とかけ離れたことはありません。しかし、「ユダヤ人」に関するそうした誤ったイメージは、皮肉にも私や花田編集長を攻撃するマスコミによって醸 成されてしまいましたし、事件は、私や花田編集長のこうした心情すら理解されないまま、不透明な幕引きで「終結」させられてしまいました。あったのは、議 論を避けた冷やかし報道と感情的な反発ばかりで、肝心の私の記事内容は、殆ど全く議論されることはなかったのです。また、漫画家の小林よしのり氏などは、 差別問題などではいいことを書く人ですが、この事件では、事実と違うことを取材もしないまま書いています。(私は、氏に「マルコポーロ」の原稿を送ってな どいません)。
「マルコポーロ」の話は、これで終わりです。問題は、歴史の真実が何であったか、です。文芸春秋社内の抗争とか、そういう、どうでもいい話はもうしません。これから、その歴史の真実が何であったかを考えてみようではありませんか。-- (第1章終はり)

                          (続く)

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)18~40ページより)

(続きはここで読めます)
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2009年2月26日 (木)

「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」

 
                                    はじめに

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イスラエルのガザ空爆・侵攻から2か月が経とうとして居ます。


報道は減りましたが、医療状況の悪化をはじめとする現地ガザの民生の状況には、深い憂慮を抱かずに居られません。
--報道の減少は、逆に、国際社会の関心の低下を招くのではないかと憂慮して居ます。


イスラエルのガザ侵攻と、それによって生じたおびただしい民間人の被害に対する私の抗議として、特に、何の罪も
無い子供たちの被害に対する私の講義として、私の著作である 『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)の一部(第一章)の全文をお送りします。

コピペによる転送、転載を歓迎します。以下の文章の一部分でも全体でも、自由に御利用下さい。ただし、文章の変更は
お断り致します。文献参照、写真、グラフ、図、などは、労力の問題と技術的理由から、割愛させて頂きましたので、
御覧になりたい方は、本の実物で御覧下さい。


イスラエルのプロパガンダである「ナチのガス室」をまだ信じて居る御友人、御知人などにメールとして転送される事や、
各種掲示板に貼り付けて下さる様、お願い申し上げます。--イスラエルがガザで行なった民間人殺戮への抗議活動として、
そして、民生状況の劣悪化への抗議として、御協力をお願ひ申し上げます。

これは、私のインティファーダです。


http://spn05738.co.hontsuna.com/article/1059522.html
(この本についてのサイトです)

2009年2月23日(月)

                      西岡昌紀

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%80%8C%E3%82%AC%E3%82%B9%E5%AE%A4%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E8%A5%BF%E5%B2%A1-%E6%98%8C%E7%B4%80/dp/4817403934/ref=cm_cr_pr_product_top

(以下本文)
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         この一書を、ナチスに反逆した芸術家
         パウル・ヒンデミット(1895-1963)
         に捧げる

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(以下本文/コピペによる転送・転載を歓迎します)

                         はじめに

-- 初めに、この本は、皆さんに大変なショックを与える本であることを申し上げておきます。それは、この本が、皆さんの多くが信じて疑ったことのなかった或る 「歴史」について、正面から疑問を投げかける本だからです。私は、この本において、その「歴史」を結論として「否定」はしません。ただ、疑問を投げかける に過ぎません。しかし、その疑問の数々に納得できる答えが得られない現状では、私個人がそれを信じることもできないことは、はっきり言っておかねばなりま せん。そして、何よりも、その「歴史」について自由な議論が封じられていることについて強く異議を唱えたいというのが、この本を著わす私の意図に他なりま せん。
 では、その自由に議論が行われていない「歴史」とは何かというと、「ホロコースト」なのです(ただし、ここでえ言う「ホロコースト」 とは、第二次世界大戦中、ドイツがヨーロッパの全ユダヤ人絶滅を企て、主に「ガス室」という手段で、実際に何百万人ものユダヤ人を殺害したとする「歴史」 を指し、ナチスドイツのユダヤ人迫害全般とは区別します)。
 ナチスドイツが、ユダヤ人を差別迫害したことは明白です。しかし、日本や欧米の「権威」ある歴史家やマスメディアは、それに留まらず、以下の二点を主張、強調しています(本書では、これを「定説」と呼ぶことにしますが、これは便宜的な呼び方です)。

①第二次世界大戦前または大戦中、ドイツは、ユダヤ人を「絶滅」しようと計画した。--「絶滅」である。

②その目的で、ドイツは、アウシュヴィッツ他の収容所に処刑用のガス室を作り、その「ガス室」で現実に大量殺人を行なった。

  即ち、「定説」は、先ず、ドイツは、ユダヤ人をただ殺したのではなく、「絶滅」しようとしたというのです。ここは非常に重要な点なので、よく、ご記憶下さ い。皆さんの多くは、「アウシュヴィッツ」についてしばしば読んだり聞いたりする機会はありながら、今までこの点にはあまり注意してこられなかったことと 思います。しかし、後で論じるように、これは非常に重要な点なのです。ドイツは、あの大戦中、ポーランド人も殺したし、ロシア人も殺した。しかし、「絶 滅」の対象とされたのは、ユダヤ人だけだった、というのが、この主張の意味なのです。この違いは非常に重要です。「定説」側歴史家たちは、この点に固執 し、一歩も譲ろうとしませんが、その理由は何なのか?それは、本文でゆっくり考えたいと思います。
 そして、そのような「ユダヤ人絶滅」の手段として、色々なものが採られたが、特に、「ガス室」が使われたという主張を「定説」側は非常に協調してきました。しかし、本当にそんなもの(処刑用ガス室)が存在したのでしょうか?
  こんなことを言うと、皆さんの多くは、「えッ?」と言って驚かれるに違いありません。こうした「歴史」は一点の疑いもない「事実」だと思っている方が、大 部分だからです。しかし、これからお話しするようん、この「歴史」には重大な疑問が多々存在するのです。「信じられない」とおっしゃる方が大部分だと思い ますが、とにかくこの本を手にしたら、どうか最後までお読みになって下さい。私は、歴史の専門家などではなく、一介の内科医にすぎません。しかし、この本 を読む皆さんは、これから、人生に何度も経験することのない大変な驚きを経験するはずです。「ホロコースト」という言葉とともに語られてきた二つの主張 --ドイツがユダヤ人を「絶滅」しようとしたという主張、および、その手段としてドイツが「ガス室」で大量殺人を行なったという二つの主張--は、実は、 信じがたいまでに多くの不合理と矛盾に満ち満ちているのです。ですから、私は、しれらをお話しし、疑問を提出し、「定説」を擁護する人々の回答を待ちたい と思います。そして、それに対する答えが得られない限り、私個人は、先の二つの主張を到底信じることができないことを、ここではっきりと言っておきたいと 思います。その二点をもう一度繰り返しましょう。

①第二次世界大戦前または大戦中、ドイツは、ユダヤ人を「絶滅」しようと計画した。

②その目的で、ドイツは、アウシュヴィッツ他の収容所に処刑用のガス室を作り、その「ガス室」で現実に大量殺人を行なった。

  誤解のないように言っておきますが、ナチスドイツが、ユダヤ人を差別、迫害したこと自体には、一点の疑いの余地もありません。そして、そうした差別政策の 一環として、ドイツが大戦中、ユダヤ人を収容所に入れたことも事実です。また、ポーランドやソ連の戦場で、当時多くのユダヤ人系非戦闘員がドイツによって 殺害されたことなど、「虐殺」と呼ぶべき事件が多々あったことも、細部の検証は必要だと思いますが、私は全く否定などしません。ですから、アウシュヴィッ ツをはじめとする強制収容所の存在や当時のユダヤ人たちの苦難がなかったなどと言っているのではないのです。当然、私は、当時のドイツのそうした行為を支 持するつもりも全くありません。こういう点は決して誤解なさらないで頂きたいと思いますが、こうした誤解をする方が非常に多く、かつ、そうした方がしばし ば感情的に反応されるため、真意が伝わらないことが、まま、あります。しかし、どうか冷静に、この後の本文を読んで頂きたいと思います。

  もう一度言いますが、ナチスドイツがユダヤ人を差別迫害したことには、一点の疑いの余地もありません。そして、その「迫害」の中には、「虐殺」と呼ぶべき 例も、多々含まれています。しかし、今日、多くの「歴史学者」やマスメディアは、それに留まらず、ドイツは、「ユダヤ人絶滅」を計画したと主張します。た だ「虐殺」したというのではないのです。「絶滅」しようとしたと、断言しているのです。そして、皆さんもよくご存知の通り、彼らは、ドイツが、その目的 で、「ガス室大量殺人」を行なったと言います。皆さんの多くは、そんな「歴史学者」やマスメディアの主張を全面的に信じておられることと思います。ところ が、驚くべきことに、これから述べるように、「ユダヤ人絶滅」も「ガス室」も、実は、それらが実在したことを示す客観的証拠は何もないのです。それらは、 驚くべきことに、ただ、戦後の「証言」で語られているだけなのです。その上、その「証言」は、不合理に満ち、或いは、相互に食い違っていたりもします。で すから、そんな「ユダヤ人絶滅計画」と「ガス室」の実在には疑問が上がって当然なのです。ところが、本文で述べますが、そうした疑問を語ることが、今日、 欧米の多くの国々でタブーとされ、法律で混じられているという状況すら生まれています。これは、ファシズムと呼ぶべきものです。
 それなの に、このような言論規制が世界的規模で広がりつつあることを日本のマスコミはきちんと報道しません。また、それを批判もしません。何が真実であれ、歴史に 関する自由な討論を国家が規制するというのは、民主主義に対する挑戦であるにも拘らず、です。そして、本文を読めばご理解頂けると思いますが、現代史に関 してこれだけ大きな問題が存在するにも拘らず、「専門家」を自称する日本の「歴史学者」たちは、それをろくに調べようともしないのです。即ち、この問題 は、基本的には歴史の問題ですが、日本では、外国の一部から流される情報が、何ら検証されぬまま、無責任なジャーナリストや学者によって流布され続けてい ることの一例ということもできます。

 この本は、こうした状況に異議を提出し、歴史の真実が何であったの議論に迫ろうとする本に他なりません。そして、こうした状況の背後に何があるのかを探ろうとするものに他なりません。
  ただし、私は、何が歴史の真実であるかについての最終的な結論は、読者の皆さんの一人一人に委ねることと致します。即ち、はじめに申し上げた通り、私は、 この本において、「ガス室」にしろ「ユダヤ人絶滅計画」にしろ、最終的に何も「否定」はしないということです。ですから、私は、ただ不合理を指摘し、疑問 を投げかけるだけですが、それは、私が、皆さん一人一人に、この問題を自分の頭で考えて頂きたいからに他なりません。皆さんに自分の頭で考えて頂くという 部分が残らなければ、この本を書くことには意味がないとすら思うからです。
 一体、「ホロコースト」とは、何だったのか。そして、私たちにとって歴史とは何なのか。この本を読み終わった時、皆さんがこの問いに直面していることを私は確信しています。

1997年5月1日

西岡昌紀--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか』(日新報道・1997年)2~8ページより)

(続きはここで読めます)
      ↓
http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/194.html
(クリックして下さい)

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2009年2月24日 (火)

白バイ事故「証拠隠滅」再び不起訴【朝日新聞】

日本の警察は「日本最大の暴力団」(どこへ行く、日本。)
http://www.asyura2.com/08/news7/msg/243.html

投稿者 gataro 日時 2009 年 2 月 24 日 16:30:46: KbIx4LOvH6Ccw

   
http://ameblo.jp/warm-heart/entry-10213872730.html から転載。

2009-02-24 15:22:41
gataro-cloneの投稿
白バイ事故「証拠隠滅」再び不起訴【朝日新聞】/日本の警察は「日本最大の暴力団」
テーマ:権力からの自由/人権侵害/共謀罪


「日本の警察を一言で言いますと、『日本最大の暴力団』と言うことになります」 ⇒

ポチの告白 [Japanese movie see on TOKATSU IFF]
http://www.youtube.com/watch?v=0DM7fj_-yNs

それを地でいったものがこの事件。 ⇒

なぜ私が収監されるのか ~高知白バイ事故の真相~【YouTube】

高知県警は日本最大暴力団の高知県本部。彼らはバス・ブレーキのスリップ痕をでっち上げるなどして、元バス運転手の片岡晴彦さんを白バイ警官に対する業務上過失致死罪に陥れた。

片岡さんはスリップ痕のようなものを偽造されたとして証拠隠滅容疑で被疑者不詳のまま告訴していたが、高知地検は不起訴処分としていた。これについて高知検察審査会は1月29日までに、不起訴処分を不当と議決した。

そして高知地検が出した結論は…、予想されてはいたが、再び不起訴処分。

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http://mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000000902240003
http://s03.megalodon.jp/2009-0224-1604-19/mytown.asahi.com/kochi/news.php?k_id=40000000902240003

白バイ事故「証拠隠滅」再び不起訴(朝日新聞)
2009年02月24日

  春野町(現高知市春野町)の国道で06年3月、県警交通機動隊の白バイとスクールバスが衝突し、同隊員(当時26)が死亡した事故で、「(証拠とされた) バスのスリップ痕は何者かが偽造したものだ」とする証拠隠滅容疑の告訴を不起訴とした処分を、高知検察審査会が「不当」と議決したのを受けて、再捜査して いた高知地検は23日、再び不起訴処分とした、と発表した。


 不起訴不当の議決は1月28日付。同地検では、「スリップ痕はバスがつけたものと判断し、偽造を疑う証拠はなかった」としたが、どのように再捜査をしたかについては、明らかにしなかった。

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【gataro】

「どのように再捜査をしたかについては、明らかにしなかった」のではなく、検察と警察は異名同体だから、そんなものは彼らにとって明らかにする必要はないし出来るはずもない。かくして日本最大の暴力団組織は野放しのまま。


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2009年2月23日 (月)

あとがきにかえて--アウシュヴィッツ『ガス室』の真実

本当の悲劇は何だったのか(転載自由)  西岡昌紀

                                                            あとがきにかえて

-- 以上で、私の話は終わりです。ただし、この本に書いた事柄は、「ホロコースト」に関する問題点の全てを網羅していません。ですから、この本の内容が、「ホ ロコースト」に関して投げかけられている疑問の全てであるなどとは、決して誤解なさらないことをお願いしたいと思います。「ホロコースト」に関して再検討 されなければならない問題点は膨大であり、とても、このような本の一冊や二冊で網羅し切れるような量ではありません。
 また、「マルコポー ロ」廃刊事件についてもこれ以上繰り返しませんが、第1章で述べたことの内、もう一度だけ強調しておきたいのは、この廃刊事件に日本の中央官庁が深く関与 していたという事実です。詳しいことはお話しできませんが、中央官庁の官僚たちが明らかに職権を乱用する形で、この国の言論に介入したことは、銘記される べきことだと思います。
 言うまでもないことですが、官僚には、脅迫や圧力によって言論に介入する権限など与えられていません。いかなる問題 についても、です。このような人々が日本の中央官庁に存在し、当時、事件に関与していたことは、それらの官庁にとってのみならず、わが国全体にとって恥ず べきことだったのではないでしょうか?

 それから、本文中でも触れたことですが、この「マルコポーロ」の私の記事には幾つか、正し くない記述もありました。具体的には、チクロンB(英語名:サイクロンB)の物性に関して、それを加熱することが使用上、不可欠であるかのように記述した ことなどがそうで、この本をお読み頂ければ分かる通り、チクロンBの使用において、加熱は重要な過程ではありますが、必要不可欠ではありません。また、こ のことに関連しますが、「マルコポーロ」の記事の中で私は、チクロンBの使用に際し、兆時間が必要とされることをチクロンBの殺傷力が低いかのように解釈 していますが、これも正しくありません。この本の本文で詳しく説明した通り、チクロンBは、猛毒である青酸ガス(HCN)を遊離し切るのに非常に長い時間 を必要とします。ですから、それが、この製剤を「大量殺人」に転用することの難点であることはこの本で述べた通りですが、それを、チクロンBの殺傷力の問 題と混同していたことは、当時の私の不勉強の結果であり、ここで改めて訂正させて頂きたいと思います。
 この他にも、「マルコポーロ」の私の 記事には、その細部に不正確な記述や舌足らずな表現があり、これを執筆した当時の自分が不勉強であったことについて、重ねて自己批判をしたいと思います。 しかし、もちろん、ドイツがユダヤ人を迫害したことは明白でも、「ユダヤ人絶滅」と「ガス室」の存在に根拠と呼べるものが何もなく、これらを到底信じるこ とができないという私の主張の大旨には、当時も今も変わりはありません。右の点を含め、「マルコポーロ」の私の記事における不正確な記述、表現等について は、この本をもってお答えできるものと考えております。なお、「マルコポーロ」の私の記事におけるそうした誤り等については、「マルコポーロ」廃刊の直後 に、既にパソコン通信で私の立場を明らかにし、自己批判をしていますので、それらの点にご関心のある方は、PCVAN-落丁&乱丁-の95年2月から8月 までの私のMSG(交信記録)をご一読下さい。

 それから、「マルコポーロ」廃刊事件の後、単行本、雑誌などに現われた反応について、一言申し上げたいと思います。先ず、はっきり申し上げると、失望させられるものが多く、特に、感情的な反発が多いことに深く失望したことを申し上げておきたいと思います。
  例えば、そうした反論者の何人かは、私への批判の中で、本文中でも引用したJ・C・プレサック(Pressac)の89年及び93年の著作をしばしば引用 していました。しかしながら、これらの方たちは、プレサックの著作の内容を正しく把握していないように思われます。本文中でも触れましたが、プレサックに 対しては、フォーリソン、バッツ、ウェーバー、マットーニョなどの見直し論者から、既に何度も批判が加えられています。
 詳細は、本文中で挙 げた文献などをお読み頂きたいと思いますが、私はこれらの論文、著作によって、プレサックの主張は既に論破されていると判断しています。また、プレサック の著作には、単純な計算違いなども含めた間違いが多いことは、特に第3章注38の文献に詳細な指摘がありますので、この文献などは必ずお読み頂きたいと思 います。実際、プレサックの二冊の本は現在、絶版になっていますが、見直し論者への「反論」として鳴り物入りで出版されたこの二冊の本が絶版になってし まったのは、果たして彼の著作のこうした問題と無縁なのでしょうか?
 それから、こうした反論者たちの文章を読んで私が奇異に思うことの一つ は、見直し論者を批判するのに、その見直し論者の文献そのものを参考文献として挙げていないことがとても多いことです。例えば、「マルコポーロ」廃刊事件 後、私への批判をこめて出版された本の一つである『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』(ティル・バスティアン著 石田勇治・星乃治彦・芝野由和編 著 白水社)を読むと、その末尾に「参考文献」のリストが載せられています。ところが、その「参考文献」の内容を見ると、何と、批判の対象である見直し論 者(リビジョニスト)の文献は挙げられていないのです。この本の日本人編著者たちは、見直し論者の著作を読まずに、見直し論者を批判しているということな のでしょうか?
 さらに言うなら、そうした「専門家」の中には、「論争など存在しない」と言う方がおられるようですが、これなどは、殆ど信じ がたい発言です。「論争が存在しない」なら、あのプレサックは一体何のためにあんな厚い本を二冊も出版したのか、そして、彼ら自身、何故、こんなにたくさ ん本を出版したのか、教えて頂きたいと思うのは私だけではないはずです。
 私は、彼らが固執しているものが、歴史の真実に関する彼らの信念よりも、むしろ自分たちの体面と学会の権威であるように思えるのですが、これは、門外漢の思い違いに過ぎないでしょうか?

  その他、マスコミ全体に対して私が問いたい事は、この問題に限らず、アカデミズムを検証、批判することを何故ためらうのか、という疑問です。ジャーナリズ ムとアカデミズムは、本来お互いを検証すべきなのに、特にジャーナリズムの側には、そんな精神が全く見られません。それどころか、大学の先生のコメントさ え引用すれば、それで事実の検証は事足りるとでもいうような、官僚的というか、安易極まりない態度が、朝日新聞や毎日新聞をはじめとする新聞、雑誌、それ にテレビ等には満ち満ちています。この問題が露呈していることの一つは、日本の文科系アカデミズムが戦後、半世紀もの間、彼ら自身による検証を行なわず、 ただ、ドイツなどで出された体制的出版物を翻訳してきただけだったという現実なのですが、こういうことを指摘し、批判するのは、ジャーナリストたちの仕事 の一つではないのでしょうか?私が会ったジャーナリストたちの多くは、このような自覚そのものが全くないのです。
 こうしたことの一方で、私 は、ご批判を下さった方たちに、直接に、或いは出版社、雑誌編集部などを通じて、直接お会いし、意見を交換することを申し入れてきました。しかしながら、 数度に渡る私のそうした申し入れは、私が極めて丁重にそうした申し入れを行なったにも拘らず、何故か全て拒絶されたことを読者の皆さんに報告しておきたい と思います。

 
 その一方で、「マルコポーロ」廃刊事件の前後に、私にご教示を下さり、或いは励ましを与えて下さった多くの方には、ここで改めて、深謝の気持ちを表させて頂きたいと思います。
 特に、ジャーナリストの木村愛二氏からは、多々ご教示を頂いたのみならず、本文中で使用した資料の一部の提供をして頂いております。記して感謝したいと思います。
 また、ユダヤ人でありながら、「ガス室」神話に疑問を投じ続けるアメリカの見直し論者デイビッド・コウル(David Cole)氏は、「マルコポーロ」廃刊事件の直後、自費で来日して、私を支援して下さいました。氏のご好意と友情には、感謝してもし切れません。
  それから、「マルコポーロ」廃刊事件の後、それまで、その著作のみを通して知っていたフランスの見直し論者フォーリソン教授とは、国際電話を通して、度々 お話をさせて頂く機会を得ることができました。その際、フォーリソン教授は、私の質問一つ一つに本当に丁寧に答えて下さいましたし、特に、絶版で入手でき なかったプレサックの93年の著作を郵送して下さいました。このことについて、記して感謝の気持ちを表させて頂きます。
 さらに、この本の執 筆に際しては、前述のフォーリソン教授の他、アメリカの見直し論者であるマーク・ウェーバー氏にも、国際電話による電話取材を何度もさせて頂きました。そ の際、ウェーバー氏は、私の長時間の質問に丁寧に答え、特に、自身の論文に関する私の質問に対しては、後日、引用した資料のコピーを郵送して下さいまし た。私は、氏のこうした公正な態度に敬意を表したいと思います。また、私は、ウェーバー氏に対し、しばしば重箱の隅をつつくような質問をし、その際には、 今にして思えば非礼な点もあったと思いますが、氏がそれらの全てに答え、このような態度で応じて下さったことに、心からの感謝を表したいと思います。そし て、氏がプレサックの89年の著作を貸与して下さったことについて、そのご厚意に深く感謝したいと思います。

 その他にも、 日本国内で、「マルコポーロ」廃刊事件前に、この問題に関する研究会を開くことにご援助下さったA先生、化学兵器の権威として多々ご助言を下さったB先 生、中東問題について種々ご教示下さったC先生、D先生、「マルコポーロ」廃刊事件後、精神的支援を与えて下さったジャーナリストのEさんなど、私にご教 示、或いは励ましを下さった方々は、数え切れません。本来なら、それらの方々全ての名前を挙げ、感謝の気持ちを表させて頂きたいのですが、この問題につい てはかえってご迷惑をお掛けする可能性があるので、あえて匿名とさせて頂く非礼をお許し頂きたいと思います。特に、「マルコポーロ」廃刊事件後も私を励ま し続けて下さった、文芸春秋社内の心ある編集者の方たちには、心からの感謝と友情を表したいと思います。そして、花田紀凱「マルコポーロ」編集長(当時) には、同誌廃刊事件当時のご心労に対し改めてお見舞い申し上げるとともに、今後の益々のご発展をお祈りさせて頂きたいと思います。
 
 この本の執筆に使用した資料は各章末尾の参照文献に明示してありますが、技術的理由から、完全な資料リストにすることはできませんでした。この点は、読者にお詫びしておきたいと思います。
  最後に、この問題に関心を持った全ての方に、読んで頂きたい本があります。それは、ジャーナリストの木村愛二氏が既に発表している『アウシュヴィッツの争 点』(リベルタ出版)という本です。この本には、私のこの本には書かれていない多くのことが述べられています。そして、私がこの本を書いている現時点で は、「ホロコースト」見直し論の立場で書かれた、私のこの本以外の唯一の日本語の研究書ですので、本書を読まれた読者の方は必ず、この本を合わせてお読み 頂きたいと思います。[この本は現在、入手しにくいかも知れませんので、リベルタ出版(電話03-3293-2923)に直接、購入をお申込みになること をお勧め致します]

西岡昌紀-- (全巻終はり)

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)295~302ページより)

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2009年2月19日 (木)

アウシュヴィッツを訪れる旅行者のために

必ずお読み下さい!
http://www.asyura2.com/09/wara7/msg/107.html

投稿者 西岡昌紀 日時 2009 年 2 月 19 日 19:57:08: of0poCGGoydL.   

 これからアウシュヴィッツを訪れようとする皆さん、行く前に、以下の文章を必ずお読み下さい!

  驚かないで下さい。私は、今日、アウシュヴィッツ=ビルケナウで公開されて居る「処刑用ガス室」は、第二次大戦後、ポーランドを支配したソ連またはそれに 追随したポーランドの共産主義政権が捏造した物であり、第二次大戦中、アウシュヴィッツ=ビルケナウに処刑用ガス室は存在しなかったと確信します。その理 由は、以下の様な物です。これからアウシュヴィッツを訪れる方には、以下の問題点を知った上で、アウシュヴィッツを見学される事をお勧めします。特に、ビ ルケナウ(第二アウシュヴィッツ)を訪れる際には、以下の文章の中で言及されて居る、「証言によれば4つ有る筈の穴が実際には一つしか無い」と言ふ指摘を 肝に銘じて、現地で公開されて居る「地下式のガス室」を見て下さい。

 皆さんは、これでも、アウシュヴィッツに処刑用ガス室が在ったとお考えに成るでしょうか?

                                                  西岡昌紀(内科医)


      

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  アウシュヴィッツは二つの収容所から成るわけですが、先に作られた第一アウシュヴィッツにも後から作られた第二アウシュヴィッツ(別名ビルケナウ)にも、 それぞれ「ガス室」があったと説明されています。より多くの人間が殺されたのは、後者(第二アウシュヴィッツ)の複数の「ガス室」においてだったと説明さ れていますが、先に作られた第一アウシュヴィッツ収容所にも一つ「ガス室」があったとされています。
 その「ガス室」の実物とされる建物が第 一アウシュヴィッツで公開されていますが、これは、火葬場と一緒に一つの建物の中にあるので、「第一死体焼却棟(Krematoruim 1)」と呼ばれるのが普通です。これは、アウシュヴィッツで最初に作られた「ガス室」ということになるわけですが、この建物は、マスコミなどで非常に頻回 に紹介されてきたものです。つまり、二つあるアウシュヴィッツ収容所に点在する複数の「ガス室」またはその残骸の内、一番有名なものと言えるのですが、こ こを管理するポーランド当局、即ちアウシュヴィッツ博物館は、この「ガス室」は初期に使われたもので、そこでは、前述のように、青酸ガスが使われた、と説 明しています。というより、隣接する第二アウシュヴィッツを含めて、アウシュヴィッツ全体に複数の「ガス室」が存在し、それらの「ガス室」全てで青酸ガス が使われた、と説明されているのです。

 青酸ガス(HCN)は確かに猛毒ですから、そのこと自体は不 合理ではありません。しかしながら、問題は、その発生方法です。前述のように、ポーランド当局及び「定説」側論者たちは、チクロンB(英語でサイクロン B)という製剤を使って青酸ガスを発生させたと主張しています。このチクロンBというのは、猛毒の青酸ガスをパルプのかけらなどに吸収または吸着させたも ので、当時のドイツでは、倉庫や船の害虫駆除にこれが使われていました(後述)。そうした青酸ガスを含んだパルプ片などが缶に入っていて、缶を開けると、 そのパルプ片が徐々に遊離するというのが、この薬剤(殺虫剤)の仕組です。チクロンBからの青酸ガス遊離は加熱によって早まりますが、こうした問題につい ては後ほどお話しましょう。とにかく、それを使ったというのです。
 話を、第一アウシュヴィッツの「ガス室」に戻すと、この「ガス室」では、 天井に開いた幾つかの「投入孔」から、そのチクロンBが投げ込まれたということになっています。つまり、天井(屋根)の小穴から投入され、「ガス室」の床 に落ちたチクロンBが青酸ガスを発生することで、「処刑」が行われた、とアウシュヴィッツ博物館などは説明しているのです。しかし、そのようなことはこの 建物の一室で行われたと信じるには、あまりにおかしなことが幾つもあるのです。

 先ず、この建物 (「第一死体焼却棟」)は、ドイツ人用の病院の真ん前にあります(前頁参照)。距離は、大体20メートルくらいです。こんな場所に「ガス室」を作ったので は、「ガス室」での処刑後、内部を換気するために「ガス室」内部の青酸ガスを排気した時、一体どんなことが起こるか想像して頂きたいと思います。そうで す。真向かいの病院にいるドイツ人たちが、生命の危機にさらされてしまうはずなのです。この建物が処刑用ガス室の建物だったとしたら、その位置はこんなに も馬鹿げたものなのですが、それにも拘らず、ポーランド当局は戦後ずっと、この建造物を「ガス室」と言い続けてきたのです。

  また、先ほどの話に関係しますが、この建物の「ガス室」とされる部分の天井には、「投入孔」があります。つまり、ここから問題のチクロンBが投げ込まれ た、というわけです。しかし、この「投入孔」を見ると、奇妙なことに気が付きます。この建物の屋根天井の内、これらの「投入孔」の周りだけが、コンクリー トの質が違うのです(次頁参照)。つまり、これは、これらの穴が後から開けられたことを意味すると思うのですが、一体なぜ、後からこの穴が開けられたので しょうか?その上、この「投入孔」は非常に粗雑なくり抜き方で開けられていることにも注目しなければなりません。これが何を意味するかと言うと、この穴に は気密性がないということです。ところが、これは、処刑用ガス室の構造としては、決定的におかしいことなのです。即ち、青酸ガスによって処刑を行なうな ら、その「ガス室」には極めて高度な気密性が要求されるはずですが、この「投入孔」を見れば、この「ガス室」(?)にそんな気密性がないことはあまりにも 明らかです。
 後で述べますが、アメリカには、「ガス室」が現実に死刑の一手段として使われてきた歴史があります。また、そおで使用されるガ スも青酸ガスですが、こうした処刑用ガス室には高い気密性求められることが、例えば、『処刑の科学』(バート・ロンメル著/遠藤比鶴訳、第三書館)という 本などに述べられています。それは当然でしょう。ガス室で処刑が行われる際には、ガス室周囲に処刑を行なう人員がいるのですから。彼らの生命が危険にさら されないためには、ガス室に高度の気密性が備えられていなければなりません。また、アメリカのガス室では、処刑後のガス室の換気も、周囲に危険を及ぼさな いように、特殊な方法が採用されています(後述)。とにかく、このように気密性のない建物を処刑用ガス室として使用したら、処刑中に青酸ガスが外部に広が り、処刑に従事する作業員たちの生命が脅かされたことは明白です。一体これが、本当に、処刑用ガス室だったのでしょうか。

  また、この第一死体焼却棟(「クレマ1」)の「ガス室」には換気装置の痕跡が見られません。そもそも、この「ガス室」はドイツ人用の病院の真ん前にあり、 これでは、「ガス室」を換気する際、ドイツ人たちの生命に重大な危機を生じてしまうことは既に述べました。しかし、その点に目を瞑ったとしても、仮にこの 建物のこの部屋が「ガス室」だったとしたら、処刑後、この「ガス室」をどう換気したのか、という問題は、全く未解決のままなのです。
 ここで 参考にしたいのは、アメリカの処刑用ガス室における換気の方法です。アメリカには、先ほども少し触れましたが、1924年以来、現実にガス室による処刑が 死刑の一手段として行われてきた歴史があります(前出『処刑の科学』)。そして、そこで使われているガスは、アウシュヴィッツで使われたとされているのと 同じ青酸ガスなのです。
 死刑の話など気分の良いものではありませんが、これについては日本語でも前出の本のほか本が出されており、その技術 的側面が記述されています(同書)。今お話ししている換気の問題について言うと、アメリカの処刑用ガス室では、処刑後、その青酸ガスを長い煙突 (stack)を通して徐々に排気するという方法が取られているのですが、これは、青酸ガスが空気より軽いことに関係がある方法だと思われます。
  即ち、青酸ガスは猛毒ですけれども、空気より軽いので、背の高い煙突を通して徐々に排気すれば、何とか周囲に危険を及ぼさずに、処刑後、ガス室の換気を完 了できるということなのだと思われます。(余談かも知れませんが、青酸ガスは空気より軽いため散逸してしまいやすく、化学兵器として使われ難い、という意 味の記述が、「定説」側の権威ある本に書かれてあります。ですから、青酸ガスが空気より軽いことが、アメリカの処刑用ガス室におけるこうした換気性と関係 があることは確かと言っていいと思います)
 ところが、このような背の高い煙突を含めて、「ガス室」を換気するための装置が、この自称「ガス 室」にはないのです。「ガス室」出入り口の扉を開けて自然通風で換気するとか、天井の「投入孔」から排気するという方法はありますが、これにはこれで大問 題があることは、後でお話しします。他にも、この建物には色々な不合理が指摘されていますが、例えば、この煙突はどうでしょうか。「ガス室」の隣の死体焼 却室の煙突とされているものですが、この通り、建物とつながってすらいないのです(前頁写真=西岡撮影)

  このように、その位置といい、気密性が欠けていることといい、換気装置の痕跡がないことといい、この「ガス室」はおかしなことだらけなのです。しかし、 もっと決定的なことをいいましょう。最近、この「ガス室」が偽物だということを、何と「定説」側論者が言い出したのです。それは、エリック・コナン (Eric Conan)という、「定説」側の論者ですが、彼は、もちろん第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)にある「ガス室」については何ら疑問を投じてはいませ ん。しかし、ことこの第一アウシュヴィッツの「ガス室」に限っては、「そこにある全ては偽物である(Tout y est faux)」と、アウシュヴィッツ解放50周年を特集した、フランスの週刊誌レクスプレス(l'Express)誌上の記事で、ついに認めているのです。
 この驚くべき記事が出た背景には、アウシュヴィッツを巡るユダヤ人とポーランド人の間の対立があります。即ち、二つあるアウシュヴィッツ収容所 の内、この第一死体焼却棟がある第一アウシュヴィッツは、「ポーランド人受難の地」として語られる傾向が強まりつつあるため、コナンを含めたユダヤ人に とっては意味が薄れつつある、という背景です。しかし、これはややこしい話なので、後述することとして、ここでは、その「定説」側論者コナンがそれを認め ざるを得なくなったもう一つの背景と思われる問題についてお話ししたいと思います。それは、この「ガス室」に関するアウシュヴィッツ博物館の説明に一貫性 がないということなのです。
 何度か触れている通り、今日アウシュヴィッツを管理しているのは、ポーランド政府の意向を反映した、アウシュヴィッ ツ博物館という組織です。この組織は、二つのアウシュヴィッツ収容所を共に管理していますが、博物館それ自体は第一アウシュヴィッツにあり、その収容所の 建物の中で、色々な物品を展示したり、アウシュヴィッツに関する資料を管理したりしています。その第一アウシュヴィッツに今お話ししている「第一死体焼却 棟」があるわけですが、二つのアウシュヴィッツ収容所に「現存」する複数の「ガス室」(またはその残骸)の内、最も良く建物の形態が「保たれている」の は、この第一死体焼却棟の「ガス室」なのです。
 ところが、この第一死体焼却棟に関するアウシュヴィッツ博物館の説明には、根本的な問題があ るのです。それは、この建物が当時そのままのものなのかという点について、博物館側が矛盾する説明をしてきたという事実なのです。つまり、先に挙げた様々 な不合理全てに目をつぶったとしても、この建物が当時そのままの状態になければ、この建物に「物証」としての価値などありません。当然、と言うべきでしょ う。アウシュヴィッツ博物館は永年、この第一死体焼却棟はドイツ人がアウシュヴィッツにいた頃のままの状態にある、と説明し続けてきました。
  ところが、そのアウシュヴィッツ博物館は、この建物が持つ様々な不合理について追及されると、「この建物(第一死体焼却棟)は復元されたものです」等と 言って弁明することを繰り返してきたのです。一体、この「ガス室」は当時そのままのものなのか、それとも後から「復元」されたものなのか。この根本的な問 いに対するポーランド当局自身の答えが、こんなものなのです。

 そして、1990年代には、博物館側 の責任者がはっきりと、この「ガス室」は「再建されたもの」だと言い、戦争中そのままのものではないことをはっきり認めるようになっています。しかし、か つては、「当時のままの状態にある」と言っていたのですから、これは、話が変わったとしか言いようのない変化です。譬えて言えば、再建された金閣寺を京都 市が「当時のままの建物」と説明していたようなものです。そして、それを観光客に問いつめられて、「実は再建したものです」と認めたようなものですが、こ んな「説明」をしたら、誰であれ、信用されなくなることは、当然です。その上、この建物の場合は、その「再建」が信用できるという保証は何もないのです。 それどころか、戦争直後の写真を見ると、明らかに現状と違うことが分かるのです。例えば、前頁の写真をご覧下さい。これは、「定説」側のプレサックという 論者の本に載っている、1945年のこの建物の写真(上)ですが、私が94年に撮った写真(下)と比較して下さい。あの煙突は、戦争直後には立っていな かったではありませんか。

 次に、この第一アウシュヴィッツから2キロほど離れた第二アウシュヴィッ ツ(ビルケナウ)収容所の「ガス室」について考えてみます。前述のように、この収容所は後から建設されたものですが、その面積は第一アウシュヴィッツより はるかに広大なものです。そして、その広大な収容所敷地内及び周辺に複数の「ガス室」は存在したと、「定説」側は主張します。そうした「定説」の主張を要 約すると、ビルケナウ収容所の敷地内には、「ガス室」を備えた建物が合わせて四つ、加えて、収容所外部にも、ガス室を備えた家が二つ、或る時期、収容所に 隣接して存在していたというのです。

 ここでまず、重要なことを言います。ビルケナウには、このよう に、複数の「ガス室」が存在し、稼働していたというのですが、それら「ガス室」の「実物」は、それぞれ程度は違いますが、皆、破壊された状態にあり、「そ のままの状態」で存在しているものは一つもないのです。「ドイツが破壊したからだ」と説明されていますが、これらの建造物を破壊したのがドイツだという証 拠は何もありません。「ヒムラーが隠滅を命じた」という意味のことを書いている本もありますが、これはただ、戦後そういう「証言」があるというだけのこと で、そんな命令文書が残っているわけではないのです。

 そこで、それらの「破壊されたガス室」につい て考えてみます。先ず、今日、ビルケナウ収容所の敷地内には、前述のように、処刑用ガス室を内部に持っていたとされる建物の残骸が全部で四つ存在するわけ ですが、これらは、建てられた順に、「第二死体焼却棟」「第三死体焼却棟」「第四死体焼却棟」「第五死体焼却棟」と呼ばれています。(「第一死体焼却棟」 は、第一アウシュヴィッツにある)
 これらの建物については順にお話ししますが、ここで一つ重要なことを指摘しておきます。それは、その内部 に「ガス室」があったかどうかは別として、これらの建物は当時明らかに存在していたということです。ですから、これらの死体焼却棟を見た人々は、当時たく さんいたのです。ですから、仮に「私はガス室を見ました」という元被収容者がいたとしても、その証言の意味は、これらの建物を外から見たという意味かも知 れないのです。
 ビルケナウには、第一アウシュヴィッツよりも多くの人々がいたこともあり、戦争中そこにいた人々の証言はマスメディアなどに 非常にしばしば登場します。しかし、後で述べますが、そうした証言の主たちは本当は何を見たのか、きちんと検証されているとは到底言えないのが、「アウ シュヴィッツ」を語ってきた戦後のマスメディアの現実です。こうした「証言」の問題については、後述したいと思います。

 では、そうしたビルケナウの死体焼却棟を検証してみましょう。ビルケナウの死体焼却棟は建設された順に番号が書いてあるので(116ページ参照)、その順に検討を加えてみたいと思います。
  先ずは、第二死体焼却棟(Krematorium 2)です。ドイツ人たちが、第一アウシュヴィッツに第一死体焼却棟を作った後、隣のビルケナウに最初に作った火葬場が、この第二死体焼却棟です。重要なこ とは、この建物には地下室があったことですが、そのことは、現場からも当時の図面からも明白です。
 この建物の地下部分は全体でL字形をして いて、そのLの字が、火葬場の地下から東西と南北に伸びて走っているわけですが、問題は、「定説」側が、これらの地下室の一つが処刑用ガス室として使用さ れていたと主張していることです。その真偽についてはこれから論じるとして、先ずは、「定説」側が、この建物についてどのような説明をしているかから、お 話ししたいと思います。そこで、118ページをご覧下さい。これは、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館が、この建物がどのように使われていたかを「説 明」するために描いたイラストです。
 ご覧のように、彼らは、この建物の地下室の一つが「ガス室」だったと主張し、そこで青酸ガスによる処刑 が行なわれたと主張します。そして、処刑された死体は、隣接する部屋からエレベータで地下の火葬場に運ばれ、焼却された、と「説明」するのです。これは、 アウシュヴィッツ博物館のみならず、この「ガス室」に関する「定説」側の一致した「説明」と言えます。
 この説明の信義についてはこの後で論 じますが、その前に重要なことを言っておきたいと思います。それは、この「ガス室」は、或る意味で、「定説」の命運を決定するほどに重要な「ガス室」だと いうことです。何故なら、「定説」の言うところによれば、ビルケナウ収容所は、第一アウシュヴィッツと違い、作られた当時から「ユダヤ人絶滅」を目的に建 設された収容所だったとされ、かつ、そのビルケナウに最初に作られた「ガス室」が、この第二死体焼却棟の「ガス室」だったとされているからです。つまり、 この「ガス室」は、初めから「ユダヤ人絶滅」のために作られた収容所の最初の「ガス室」だったとされているのです。ですから、この地下室は最初から「ガス 室」として設計されていなければおかしいのであり、もし、そうでなければ、ビルケナウ収容所の建設目的それ自体が、「定説」の説明とは違うものだったとい うことにもなりかねません。この点については後でお話ししますが、重要な点なので、もう少し説明しておきます。

  「定説」側の説明によれば、第一アウシュヴィッツの方は、最初は普通の強制収容所だったものが、途中から「絶滅収容所」に切り替えられた収容所だった、と されています。しかし、この第二アウシュヴィッツの方は、その第一アウシュヴィッツが「ユダヤ人絶滅」を遂行するには手狭なので、増設された収容所だとさ れているのです。ですから、それは、第一アウシュヴィッツとは違い、初めから「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたはずなのです。ところが、仮にこの主張が 本当だと仮定すると、既に第一アウシュヴィッツで「ガス室」という処刑法が採用されていたのですから、新しく作られたビルケナウ収容所には、建設当初から 「ガス室」を作ることが計画されていたと考えるのが妥当なはずです。ところが、そのビルケナウに作られた最初の処刑用ガス室がこの第二死体焼却棟の地下室 だったというのですから、この建物の地下室は、初めから処刑用ガス室として設計されていなければおかしいのです。この点にご注目下さい。この点について、 「定説」側論者の一人が、重大なことを述べているのです(後述)。

 そのことについては後でお話 しするとして、この建物の地下室が「ガス室」だったという説明の不合理を指摘したいと思います。先ず、地下の「ガス室」を処刑後どうやって換気したのか、 という問題があります。地下室ですから、気密性を確保するには良いかも知れませんが、人間が一杯に押し込められたその地下室を換気し、死体を搬出するに は、大変な時間が必要とされたのではないか、という問題があるのです。青酸ガスは猛毒ですが、猛毒であるからこそ、処刑後、作業員が「ガス室」内部に入っ て死体の搬出作業をするためには、徹底的な換気が行われなければなりません。しかし、問題の地下室は、隣室との間に出入り口が一つあるだけなので、三方は 地中に囲まれている細長い地下室なのです。
 換気扇を使おうと使うまいと、猛毒の青酸ガスを隣室に排気したら、今度はその隣室の徹底的な換気 が必要になります。しかし、これは、あまりに非効率かつ不合理なことです。では、地上に排気したというのでしょうか?しかし、そのような装置が存在してい た痕跡はなく、戦争中の写真からも、そんなものはなかったらしことが窺えるのです。

 もう一つの疑問 は、処刑後、どうやって死体を搬出したのか、という問題です。今述べたように、この地下室には出入り口は一つしかありません。ところが、そんな地下室の中 に、人間を多い時は3000人も(!)入れて処刑したと、「定説」側は主張しています。そんな多数の人間をこの地下室に押し込め、処刑し、そして、死体で 満杯の地下室を換気したという話自体が驚異です。しかし、さらにその後、そうした多数の死体をたった一つしかない狭い出入り口から搬出して、隣接するエレ ベータで地上の火葬場に運んだ、というのです。こんな作業がどれほどの人手と時間を要するか、想像して頂きたいと思います。特に、この地下室に出入り口が 一つしかないということは、この作業にとって、非常に大きな障害になったに違いありません。医療関係者の方なら、人間の体を運ぶことの大変さを良くご存知 と思いますが、こんな話をお信じになれるでしょうか?そもそも、この「ガス室」とされる地下室の面積は210平方メートルなのです。その中に、3000人 もの人間が入ったという話自体を、皆さんはお信じになれるでしょうか?

 こうした不合理が、第二死体焼却棟の地下室(の一つ)が「ガス室」だったという説明には、つきまとっています。そして、この建物のすぐ隣にあった第三死体焼却棟は、この第二死体焼却棟と同じ構造の建物ですから、これと同じ不合理をかかえているわけです。
  それなのに、「定説」は、この二つの建物の「ガス室」で最も多くの人々が殺された、という説明をしています。つまり、「定説」にとって、この二つの建物の 意味はそうした機能の面においても、非常に大きなものなのです。その上、先ほど述べたように、この第二、第三死体焼却棟は、ビルケナウ収容所で最初に作ら れた火葬場ですから、はじめからその地下に「ガス室」を作ることが計画されていなかったなら、そもそもこの収容所は何のために作られたのか、という問題が 生じるという意味でも、この二つの建物は重要な意味を持っているわけです。ところが、そこに次のような問題が存在するのです。

  前にも触れましたが、このアウシュヴィッツ=ビルケナウに関しては、ドイツ人が作成した書類や図面が多数残され、ポーランドやロシアに保存されています。 それらの中には、例えば、この第二、第三死体焼却棟の設計図もあれば、建設業者との間でやり取りされた手紙なども多数残されているのですが、それらのアウ シュヴィッツ関連文書や図面をロシアとポーランドで収集し、自分の解釈とともに出版した「定説」側論者に、プレサック(Pressac)というフランスの 研究者がいます。
 このプレサックは、1989年と93年に、それらの文書や図面を収録した著作を発表していますが、特に、その89年の著作 ()は、この第二、第三死体焼却棟の図面を含めて、そうした図面や書類が多数掲載されたぶ厚い研究書です。ところが、この二冊の研究書を発表した「定説」 側論者プレサックが、この第二、第三死体焼却棟についてどんな結論を述べているかというと、何と、これら二つの建物は、当初は単なる衛生施設として設計さ れた、と結論付けているのです。即ち、これらの建物は、設計段階では、その地下室を処刑用ガス室として利用する計画などはなかった、それを途中から処刑用 ガス室に転用したのだ、というのが、彼がたどり着いた結論だったのです。最終的にこの第二、第三死体焼却棟の地下室が処刑用ガス室として使われた、という ことはもちろん譲らないわけですが、少なくとも設計当初にはそこをガス室として使用する意図はなかった、ということを「定説」側論者が認めたことの意味は 重大です。しかも、それは、ロシアやポーランドにある膨大な図面を、彼が「定説」側論者の目で検証した結果なのです。

  これが何を意味するかというと、先ず、ビルケナウ収容所が建設された当初、この収容所に処刑用ガス室を作る計画はなかったということです。仮に、彼が主張 するように後からこれらの地下室が「ガス室」に転用されたとしても、収容所の建設当初には処刑用ガス室を作る計画がなかったということなのです。ですか ら、これは、ビルケナウ収容所が「ユダヤ人絶滅」の目的で作られたという命題そのものに疑問を投げかける結論を意味するのです。
 実際、プレサッ クが自著に掲載しているこの第二、第三死体焼却棟の多数の図面を見ると、問題の地下室には、Leichenkeller(死体安置室)という書き込み以外 の名前は与えられていません。つまり、これらの地下室は、火葬に先立って病死者などの死体が安置された、霊安室のようなものだったということです。当時の アウシュヴィッツ=ビルケナウでは、チフスなどによって連日多くの人々が生命を落としてしまいましたが、そのチフスの拡大を予防する目的で、これらの地下 室と火葬場は作られ、使用されていたということなのではないでしょうか。それが「ガス室」に転用されたというなら、その証拠を示すべきですが、結論から言 うと、プレサックはそのような証拠を提示していないのです。

 こうした様々な不合理に加えて、もう一 つ、「決定的」とも言える問題が指摘されています。言われている「定説」側の説明によれば、「ガス室」だったとされる第二死体焼却棟の地下室の天井に小穴 が四つあり、その小穴から例のチクロンBが投入されたという話になっています。ところが、この点について、見直し論者の一人であるフランスのフォーリソン (Faurisson)教授は、驚くべきことを指摘しているのです。それは、現在ビルケナウ収容所に現存する第二死体焼却棟に足を運んでその実物を見る と、「ガス室」だったはずの地下室の天井、即ちその地上部分に、肝心の小穴が一つしかない(!)ということなのです。しかも、その一つしかない小穴も、 フォーリソン教授によれば、非常に新しいもので、戦後開けられたものだとしか考えられない、というのです。穴がなければ、チクロンBを投げ込めないではあ りませんか!(私もここに足を運んでいますが、その時は、不覚にも、このことには気付きませんでした。これは、フォーリソン教授に電話で指摘されたことで す)そして、フォーリソン教授によると、ビルケナウを管理するアウシュヴィッツ博物館はこのことについて何も説明をしていないということですが、これは、 説明できないからなのではないでしょうか?

 次は、同じくビルケナウの第四、第五死体焼却棟について です。この二つの建物は、ビルケナウ収容所で第二、第三死体焼却棟よりも後に建てられたもので、こられについても当時の図面や写真は残されています。それ らによると、この二つの建物は構造が同じで、地下室はありませんでした。第二、第三死体焼却棟と同様、第四、第五死体焼却棟も煉瓦作りで、内部に火葬場が あったことは間違いありません。問題は、ここでも、「定説」が、これらの建物の中に、火葬場のみならず、処刑用ガス室があったという主張をしていることで す。
 しかし、先ず、この二つの建物は破壊がひどく、煉瓦の礎石が残されているに過ぎません。ですから、第一アウシュヴィッツの第一死体焼却 棟は言うに及ばず、同じビルケナウの第二、第三死体焼却棟ほどにも建物の形態は保たれていないわけで、その意味では、そもそも物証としての価値は初めから ないと言わざるを得ません。
 それでは、当時の図面はどうかと言うと、やはり、これらの建物の内部に処刑用ガス室が存在したことを示す記載は ないのです。ただ一つ、図面ではありませんが、建物が作られていた当時の建設日誌の中に、Gaskammer(ガス室)という単語の出て来るものがありま す。これは、「定説」側論者であるプレサックが、1989年の自著の中で、他の複数の文書(後述)とともに提示しているものですが、この日誌に出てくる Gaskammerというドイツ語は、確かに処刑用ガス室も意味し得ますが、衣服などを燻蒸、駆虫するための殺虫用ガス室をも意味する単語なのです。(日 本語で「ガス」と言ったら、毒ガスとは限らないのと同じです)むしろ、それが普通の使われ方なのですから、それが処刑用ガス室だったというのなら、そうい う側の人々は証拠を提示するべきです。現に、ビルケナウには殺虫用のガス室が存在し、被収容者の衣服をシラミ退治の目的で消毒するために使われていまし た。そのことを考えると、これなども、そうした設備を示す言葉と解釈する方が全く自然だと思うのですが、いかがでしょうか。

  アウシュヴィッツ=ビルケナウの死体焼却棟については、このプレサックが、先の自著の中で、その他にもGasの付く単語(Gaspuefer、 Gastuerなど)が出て来る当時の文書を複数、提示しています。しかし、結論だけ言うと、「ガス」という単語が「毒ガス」を意味するとは限らず、単に 「気体」を意味することもあれば、他の気体を意味するがあることから理解できるように、それらの単語が、処刑用ガス室に関係していたという証拠はありませ ん。例えば、プレサックは、Gaspruefer(ガス探知器)という単語の出てくる業者宛ての手紙がアウシュヴィッツに残されていることを挙げ、それを アウシュヴィッツ=ビルケナウに処刑用「ガス室」があった証拠でもあるかのように引用しています。しかし、当時、販売されていた青酸ガス探知用のキットに は別のドイツ語の単語が使われていたことが、見直し論者であるマットーニョによって指摘されています。それどころか、このGasprueferという単語 は、燃焼工学の分野で、焼却炉の排気ガスに関して使われていた技術用語であったことまで指摘されています。つまり、このGasprueferという単語が 出て来る業者宛ての手紙は、「毒ガス」の探知に使われたものではなく、焼却炉で使われた器具のことらしいということです。このように、ただ「ガス」の付く 単語が出てくる領収書や手紙を集めて提示しても、それらの単語が「毒ガス」や処刑用ガス室に関連したものだという証明がなければ、ガス漏れ警報器の領収書 があるからその家にはガス室があると言わんばかりの話にもなりかねません。
 プレサックが提示したこれらの文書の問題については、見直し論者 の側から複数の反論が出されているので御参照頂きたいと思います。なお、このプレサックが発表した二冊の研究書は、現在絶版になっています。そのため、私 も入手に苦労しましたが、プレサックのその二冊の本は、見直し論者に対する反論として、鳴り物入りで発表されたものだったのです。それなのに、これら二冊 の本を、彼(プレサック)の出版社は何故、絶版にしてしまったのでしょうか?

 それから、ビルケナウ 収容所を西に出た野原に、「ブンカー」と呼ばれる、「農家を改造したガス室」があったと、「定説」側は主張しています。しかし、これらの「ガス室」は、戦 後の「証言」で語られただけのもので、これまでお話しした五つの死体焼却棟(Krematorium)と違って、建物の実物もなければ、図面すら残ってい ないのです。他の死体焼却棟については多数、図面や書類が残っているのに、この二つの建物(「ブンカー」)については何も残っていないということになりま すが、これはおかしくないでしょうか。そして、肝心の建物がないのですから、まるで雲をつかむような話です。
 二つあったとされる「ブン カー」の内、その一つについては、家の礎石のようなものが野原の中にありますが、それがただの農家などの礎石ではなく、「ガス室」を備えた建物だったとい う証拠は皆無です。そして、もう一つの「ブンカー」は、礎石すらなく、ただ「あった」という戦後の証言があるだけなのですが、一体、その存在はどうやって 証明されるというのでしょうか?
 そもそも、農家を「ガス室」に改造した、という話自体がおかしいのです。「ガス室」というものは高い気密性 を備えたハイテクなのであって、当時のポーランドの農家を改造してそんな目的に転用できたという話自体、到底信じがたいものです。そんなことが本当に行わ れたのでしょうか?

 こうした多くの問題も勿論、重要ですが、実は、もっと決定的な科学的事実がある のです。それは、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)に現存するこれら五つの「ガス室」付きだったとされる死体焼却棟の破片を化学分析したところ、予想 されるような多量のシアン化合物がまるで検出されなかったという、重大な化学的事実です。
 即ち、アウシュヴィッツ=ビルケナウには、お話し したような処刑用ガス室が幾つかあり、そこで、青酸ガス(シアン化水素)を使った処刑が頻回に行われたという話になっています。ところが、その「ガス室」 があったとされるこれらの建物(死体焼却棟)からその破片である煉瓦やモルタルを採取し、化学分析した結果、予想されるような多量の青酸化合物(シアン化 合物)は検出されなかったのです。これでも、そこに処刑用のガス室が存在した、というのでしょうか?

  このことを報告したのは、ウィリアム・ロス(William Roth)博士という、アメリカの化学者です。博士によるこの化学分析の結果は、フレッド・リューシュター(Fred Leuchter)氏という、アメリカで処刑用ガス室に関する仕事をしてきた人物による調査報告書(通称「ロイヒター・レポート」)に収められています。
 これは、リューシュター氏(日本では、ドイツ語式に「ロイヒター」と発音することが多い)が、アウシュヴィッツ=ビルケナウから持ち帰ったサン プルについて行なった分析で、対照(コントロール)として、戦争中チクロンBによる衣服などの青酸燻蒸が行われていたビルケナウの殺虫用ガス室 (delousing chamber)の破片が採られています。この殺虫用ガス室については既に少し触れていますが、皆さんは、そんなものには全くなじみがないに違いありませ ん。これは、当時ドイツや東欧で、チフスなどを予防する目的で汚れた衣服を消毒する際に広く用いられていたもので、当時DDTを持たなかったドイツが、チ フスを媒介するシラミを駆除する目的で、広く使っていた設備だったのです。その殺虫用ガス室がビルケナウに残っているので、その断片を対照にしたわけです が、その殺虫用ガス室の断片からは、戦後43年を経ていたこ報告の時点にも、高濃度のシアン化合物が検出されたのです。ここに示すのはこの測定のグラフで すが、右端の殺虫用ガス室の断片からはこのように高濃度のシアン化合物が検出されています。ところが、その左に並ぶグラフをご覧下さい。Kremaという のは「死体焼却棟(Krematorium)」の略ですが、第一、第二、第三、第四、第五死体焼却棟(Krema Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ)のグラフはどうでしょうか。殆どゼロなのです(ごくわずか検出されるシアン化合物は、当時行われた青酸燻蒸の名残りだと考えられま す)。これは一体、どういうことなのでしょうか?
 この報告をまとめたリューシュター氏は、アメリカのマサチューセッツ州で、処刑用ガス室に 関連したコンサルタントを営んできた人物です。氏は、1988年に、カナダで見直し論の出版物配布を巡って起きた裁判に弁護側の依頼を受けてポーランドを 訪れ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、及びマイダネックの「ガス室」をガス室専門家の目で現地調査した人物ですが、その現地調査の際、これら「ガス室」が あったとされる建物の断片をポーランドからアメリカに持ち帰り、前述のロス博士に分析を委託しました。(この裁判はツンデル裁判と呼ばれ、「ガス室」論争 に大きな影響を残しています。この裁判については、「注46」をお読み下さい)。
 その結果がこれなのですが、頻回に使われたはずの「ガス 室」跡からはシアン化合物が殆ど全く検出されず、対照として採取した殺虫用ガス室の断片からはこのように高濃度のシアン化合物が検出されるのです。これは 一体、何故なのでしょうか?そこに「ガス室」などなかったからなのではないでしょうか?

 この報告書 (「リューシュター・レポート」)が書かれた経緯については、「注46」で別にお話ししますが、この報告書が88年に発表されると、当然と言うべきか、 「ガス室」の存在を主張する側から、強い反発が生まれました。そうした「反発」には、感情的なものや政治的なものが圧倒的に多かったのですが、解釈は別と して、この「リューシュター・レポート」の分析値自体が正しいことは、皮肉にも、この報告書を批判したポーランド・クラクフの法医学研究所の論文によって 裏付けられています。即ち、この報告に反論しようとしたポーランドの法医学者たちが、同じようにアウシュヴィッツ=ビルケナウの色々な場所からサンプルを 採って化学分析をしたのですが、彼らの報告は、データの解釈において「リューシュター・レポート」に反駁してはいるものの、ロス博士が報告した「リュー シュター・レポート」の分析値自体は、結局、肯定する内容になっているのです。
 死体安置室から極く微量のシアン化合物が検出されるのは、前 述のように、当時、チフス予防の目的で行なわれたシラミ駆除のための青酸燻蒸の痕跡と考えられますが、これは、対照に比較して、余りにも微量な数値です。 この分析値については、解釈のレベルでの反論として、永い時間が経っているから青酸化合物が検出されないのだ、というものが予想されますが、それでは、対 照とした殺虫用ガス室から高値のシアン化合物が検出された理由が説明できません。
 それから、「ガス室」の方は雨にさらされて水で流されたの で微量の青酸化合物しか検出されないのだ、という反論がありますが、分析の対象となった五つの建造物(第一アウシュヴィッツの第一死体焼却棟、第二アウ シュヴィッツの第二、第三、第四、第五死体焼却棟の断片)の内、第一死体焼却棟は、その構造からして、雨にさらされるわけがないのです。ところが、その第 一死体焼却棟からも、予想されるような多量の青酸化合物は全くもって検出されていないのです。 また、青酸化合物が、煉瓦などの鉄と結合して、シアン化合 物を形成した場合、その化合物が雨水で容易に流されることはないという反論を、この分析をしたロス博士は述べています。そして、同じ指摘がロス博士以外の 専門家からも為されていることをつけ加えておきます。一体、こうした結果と論争の経緯をどう考えればいいのでしょうか。
 このように、アウ シュヴィッツ=ビルケナウの「ガス室」については、多くの不合理と証拠の欠如に加えて、化学的痕跡が認められない、という問題が指摘されているのです。こ れが、アウシュヴィッツ=ビルケナウに、ポーランド当局が、「ガス室」という触れ込みで公開している建物もしくはその残骸の実態なのです。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
(日新報道・1997年)100~135ページより)

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(参考サイト(木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』より))
     ↓

http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-54.html

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      アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘 夜と霧 フランクル
      シンドラーのリスト 負の遺産
 

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2009年2月13日 (金)

ココまでやります。米国によるケムトレイル攻撃によってキューバ農業が大被害

      
裏・闇を照らす目より
      

米 国を中心に、主要先進国を支配下に置き、温暖化防止目的とデッチアゲの建前をかざして軍事目的、金儲け目的(旱魃を引き起こして自国の遺伝子組み換え作物 を売るとか、インフルエンザウイルスを撒き散らして薬を売るとか)等で世界中にケムトレイルを撒き続けていることは、これまで度々書いてきたけど、今回の はキューバに害虫を大発生させ、農業を壊滅状態にしてしまおうという米国の行った行動で、これに対しキューバ政府は国連の場で正式に抗議もした。

当然、日本のマスゴミでは(米国は正義の国だと国民意識に植え付けなくてはならないので)報道しないから、ほぼ全国民がこの事実を知らないし、私もつい先日、コメで小夜子さんから教えてもらうまで詳しいことは知ってませんでした。
(以前に予備ブログの方に関連記事を機械翻訳してただけで内容的にはイマイチわかりにくかったので、今回の日本語記事でよく理解できました)

キューバ有機農業ブログ 2006.9.27より

ミナミキイロアザミウマ

・・・今を去ること10年前、1996年10月21日、10時08分。そんなキューバの民間機のひとつ、ハバナとラス・トゥナス間を結ぶ定期便、クバーナ航空のCU-170号が、高度2700mを時速400キロで飛行していた。
そして、同機の機長と二人の副操縦士は、300mほど上空を北から南に向かって飛ぶ単一エンジンの一機の飛行機を目にした。だが、その飛行機は奇妙な所作をしていた。断続的に7回も灰白色の霧状の物質を散布していたのだ。その日は快晴で、場所は、マタンサス州のバラデロ南部の25~30kmの地点だった。

疑問に思った機長は、管制塔に無線で連絡を取る。その機は、許可を受け、キューバ上空を北から南に飛行していた米国国務省所属のS2R型小型機だった。航空管制官は、「何か技術的なトラブルがあったのか」と米機のパイロットにたずねた。だが、パイロットは「何もない」と答えた。管制塔は機種も確認した。すると、「単発エンジンのAY-65である」との返事が戻ってきた。この会話はテープに録音されている

この目撃事件があった2ヵ月後、今日の主人公「ミナミキイロアザミウマ(Thrips palmi)」が登場する。アザミウマは体長が1~1.5ミリほどの小さな昆虫で、主に花の中、草や木の葉の間、樹皮下や枯葉の中、土壌中等に生息してい る。現在、200種類が確認されているが、うち吸汁性のものは作物に傷をつけて加害する危険な害虫である。もともとアジアには広く生息する害虫だが、これ までキューバでは知られていない害虫だった。

だが、12月18日、このアザミウマがマタンサス州のジャガイモ農場で異常発生したのである。翌1997年1月には、マタンサス州に接するハバナ州南部のムニシピオの畑にも広まり、とうもろこし、豆、かぼちゃ、きゅうり、その他の作物に被害がでた。

キューバは発展途上国だが、優れた病害虫管理監視網を持っている。 1997年2月14日には、植物防疫研究所は害虫をアザミウマであると特定。作物被害の原因が特定されると、キューバ政府は高額の化学合成農薬の散布も含 め、直ちに緊急防除措置を講じた。だが、アザミウマは多くの殺虫剤に対して耐性をもつ厄介な害虫である。十分な効果はなく、6ヶ月後には、国土の3分の1 にまで被害が広がり、甚大な被害が各地で広まることになった。

キューバの植物防疫センターの職員たちは、どこで害虫が発生したのかを追及した。そして、害虫が最も高密度な地点から、最初の感染場所がホベリャノス (Jovellanos)ムニシピオの「レーニン園芸国営農場」であり、さらにそこから数キロ離れたメキシモ・ゴメス(Maximo Gomez)とボロンドロン(Bolondron)村の近くであると特定した。また、12月18日に検出されたアザミウマはすでに第三世代か第四世代のも のであることもわかった。アザミウマの生理的生殖周期が15~21日間であることを考えると、アザミウマが発生したのは10月後半であることになる。
つまり、アザミウマの感染地点も時間も、米国の飛行機が何かを散布した飛行ルートと通過した日付と一致したのである。

1996年12月26日、キューバ外務省は、飛行事件についてきちんと解答するよう米国側に回答を求めた。そして、七週間後に米国から「パイロットの操縦 士は、キューバの民間航空機が下に飛んでいるのを見た。そのため、位置を示すのに『煙発生装置』を使用したのである」との返事が戻ってきた。

だが、キューバの機長は、農薬空中散布の経験を持っているが、「自分が見たのは、あくまでも煙ではなく、物質の放出だった」と断言している。また、SAR機は、麻薬取締り作戦に使われ、コカ葉栽培地などで枯葉剤を散布するために使用されている機で、その日は、フロリダ州のココア・ビーチのパトリック(Patrick United States Air Force Base)合衆国空軍基地から飛び立ち、グランド・ケイマン島経由でコロンビアに向かっていた。だが、同機には、液体粒子とエアゾールを散布する装置と固体粒子を散在する二基のシステムは備えているが、煙の発生装置は備えられていない。しかも、「煙の放出」という主張は、テープに録音された米国のパイロットとの会話にも矛盾する。

1997年3月末、キューバ政府はFAOに技術・財政支援を申し込み、FAOの植物防疫の専門家、ジム・ポラード(Jim Pollard)が同年4月、確かにアザミウマがキューバが発生していることを確認する。

1997年4月28日、キューバ政府はこれを「生物攻撃」であるとして、この事件とその後のやりとりの詳細な報告書を国連総長宛提出した。

だが、米国側は「事実無根」と反論し、対立は1997年8月、ジュネーブでの生物兵器条約に基づく協議の場に持ち込まれた。そして、同年12月、委員会は、「問題の技術的複雑さのため、決定的な結論にいたるのは不可能である」と報告した。すなわち、ミナミキイロアザミウマが、はたしてキューバに対する米国の生物兵器として使われたのか、事実は闇のまま葬り去られたのである。

(追伸)
キューバの有機農業を邪魔するため、米国が害虫を空から散布している
このとんでも本まがいの話を私が初めて耳にしたのは、はじめてキューバを訪問した時、有機都市農家、セグンド・ゴンサレス氏からだった。当時、まだキュー バのことをよくしらなかった私は、カストロが経済危機で苦しむ国民の批判をそらし、独裁権力を守るために行っている自作自演劇ではないかと疑ったりもし た。「外部からサリンの攻撃を受けている」と主張した某宗教団体の教祖の顔が浮かんだりもした。

だが、疑われる向きの方は、世界的に著名な昆虫学者、桐谷圭治さんの以下の文章を読んでいただきたい

私も今時まさかと思い、日本で開催されたシンポジウムに出席していた米国の著名な2人の昆虫生態学者にその可能性を聞いてみたところ、返事は意外にも「Possibleだ。いままでにもそのような話は十数回あり、そのうちの6回ぐらいは証拠も出ている」という話だった
桐谷圭治著「ただの虫を無視しない農業」(2004)築地書館P128より

なお、1997年、新たに公開されたCAI文書は、CAIが「1960年代に世界中の多くの国を標的とした作物破壊戦の秘密研究プログラムを行なつていた」ことを示している。常識を知らなかったのは、私の方だったのである

これを読めばなんの説明も要らないだろう。
印象的なのが一番最後に書かれてる言葉で、「常識を知らなかったのは、私の方だったのである」で、これは私が普段から言ってる「世間の常識こそ非常識の典型!」ということと同じだ。
洗脳目的のメディア報道や世間で言われてることを鵜呑みにしたり、ただなんとなく・・といった態度を改め、世間に知られてない情報も頭ごなしに拒否するのじゃなく、自分自身でいろんな情報を調べ、真剣に考えるようになりさえすれば、誰もがいろんな真実に気付くはずである!

いろんな事件等でメディアの言ってる内容は、ほとんどが決定的な根拠も証拠もなく、単に日本政府や警察、米国発の言ってる情報をそのまま流し煽ってるだけだ。 報道されることのない被害者?側の挙げてる証拠等と見比べ、自分の頭で真実を考えるようになってもらいたい!
既成概念・固定観念を捨てて冷静に見比べれば、どちらの証拠・証言の方が信用に値するかぐらい誰にでもわかるはずだ。

(ちなみにうちのブログでは、高校生前後の若い人たちも結構見に来てくれている。
単に好奇心からというのであれば、UFOとか宇宙人とかもっと派手なことを書いてるサイトに行くだろうし、海外サイト記事で機械翻訳そのまま載せてるようなわかりにくいのをずっと見続けてくれるとも思えないw
つまり、権力者らにまだ洗脳されきっていない純粋な見方・考え方ができるからこそだろうと思っている)

国連等は一言でいえば、表向き正義を振りかざして米国が世界侵略するために作った機関であり、米国らにとって都合の悪いことを認めるはずのないこと。
その中で否定するのではなく、「決定的な結論にいたるのは不可能である」という言い方をしたのはせめてもの良心の欠片ということか・・・

そして、「そのような話は十数回あり、そのうちの6回ぐらいは証拠も出ている」というのは他ならぬ米国自身のその道の権威ともいえる著名人らが語っていことなのである!

さらに、1998年と2004年にはカリブ海諸国で深刻な大干ばつが起こったことなども、おそらく米国によるケムトレイルHAARPの仕業だろうと思われるし、昨年、大きなハリケーンが立て続けに襲ったのも単なる自然災害かどうか? 実際、人為操作らしき怪しい形跡がレーダー画像に現れてたことも当時書いた。 (→関連記事:ハリケーンHANNAの異常な変化!

ケムトレイルと一言に言っても、いろんなタイプがあり、その目的によって撒かれる成分も違ってくるけどその目的の一つに、旱魃を引き起こすというのがあり、その場合はケムトレイルに含まれてる高分子繊維成分に大気中の水分を吸着させて雨を降らせなくしたり、HAARP等の電磁兵器と併用して旱魃を起こしたり逆に洪水を起こしたりあるいは日照不足にしたりするわけです。
ケムトレイルに関しては、付属HPに簡単にまとめているし、そこの末尾に載せてるリンクをご覧ください。 とくに、
ケムトレイルの動かぬ証拠~ジオ・エンジニアリング
気象操作、国家安全保障の研究報告
ケムトレイルの目的と有害性
気象改変会社のHPに書かれてる内容から~有毒なバリウム等を撒いている
米空軍・第910空輸師団第757中隊の日常任務はケムトレイル散布!
あたりを読んでもらうと、現実に行われてることがよくわかるはずです!

米国はキューバに対して、数十年にわたって経済封鎖を続けているばかりか、こうやっていろんな妨害工作を続けているのです!
もちろん、カストロの暗殺もこれまで何度も試みており、幸い今までのところはいずれも失敗に終わっている。

なぜ米国がキューバベネズエラ等に対してこのような妨害工作ばかり繰り返しているのかといったあたりについては、すでの多くの人たちは知ってるだろうけど近いうちにもう一度書いてみたいと思ってます。
それは、メディア等が煽ってるようにキューバやベネズエラ、あるいはカストロやチャベスが悪とか独裁とかいったものでは全くない!
ただ単に米国の金儲け目的だけに他ならず、そのために世界中にそのように操作したデマ情報を流しているだけなのだ・・・

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2009年2月11日 (水)

欧米の闇権力はやはりまだ世界的な大虐殺を企んでいる

02/11/2009                     ベンジャミン フルフォード

 

新しい金融システムに抵抗をし、世界的な大不況を起こしている欧米の闇権力は明らかにまだ数10億人の殺戮を企んでいる。

こ の証拠は明白だ。まず世界の食糧難の分析をすればすぐにわかる。現在わざと先物市場を操り、世界的な食糧不足があるにも関わらず、穀物の値段を安くしてい る。同時に談合により肥料の値段を高くしている。その為に安い穀物と高い肥料で板挟みになっている発展途上国の農家は収穫を減らさざるを得ない。そして世 界の援助団体が「餓死者」について騒ぐと、欧米諸国の首脳達はサミットなどで大量の食糧援助を約束するが結局お金を支払わない。昨年の飢餓対策では140 億ドルの援助が約束されたが、実際に支払のわれたはたったの10億ドルだ。

世 界に合理的な「新しい金融システム」を導入しなければ、向こう2年で数10億の餓死者が出る可能性が高まっている。「新しいシステム」によって先ず食品な どの商品先物の値段を操ることができなくなる。また新しいルールに従えば、現在のように一部の肥満アメリカ人が肉を大量に食べるために貧しい人達が餓死す ることがなくなる。現在の欧米の国際ルールでは生命そのものが「人権」として認められていないのだ。
もし中国やロシア、日本などがドルやユーロに代わる新しい国際通貨を発表すれば、欧米の闇権力の腐った帝国は一気に倒れる。彼らが倒れたら世界のためのマーシャル・プランが実現され、現在の経済危機は直ぐになくなり人類は素晴らしい新しい時代に入る。

現 在水面下で妥協案を探るための話し合いが続いているが、時間が経てば経つほど欧米の闇の勢力にとって都合が悪くなる。そのためにもう少し彼らを吊るすのも 得策かもしれない。しかし世界で一番貧しい餓死寸前の人達を助けることを最優先課題にしなくてはならない。日本や他の外貨を持っている国々が急いでその外 貨で発展途上国の農家を助ける必要がある。
更に疫病対策も練る必要がある。パナソニックは鳥インフルエンザを恐れ従業員を海外から日本に帰国させる決定をした。やはりこの悪魔教連中は最後の最後まで諦めそうにない。

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2009年2月 8日 (日)

法王のガス室発言撤回命令に対し「直ちに応じるつもりない」「歴史的証拠の再検討が必要」


ローマ法王がウィリアムソン司教に対して「ガス室はなかった」発言を撤回せよと公式に命令するという展開がありました。
シュピーゲル誌が今週号でまたウィリアムソン司教に取材して記事にしてくれたそうです。
「私は80年代に調べたことを根拠に、自分のコメントが正しかったことを確信していました」
「もう一度すべてを吟味して証拠を調べねばなりません」
ということで、納得できる証拠が出てこなければ撤回しないというつもりのようです。

http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5jAw8etaq2WFAblaExiQ31ZZuJtPQD966Q4GO0                           AP通信

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2009年2月 5日 (木)

ローマ法王:火消しに躍起、英司教がガス室否定発言

 【ローマ藤原章生、ベルリン小谷守彦】英国の超保守派カトリック司教がナチスによるユダヤ人虐殺を疑問視する発言を行い、ローマ法王ベネディクト 16世が4日、発言撤回を求める声明を発表した。法王は和解を進めるユダヤ教との関係悪化を懸念し、火消しに躍起になっている。

 発言が問題になっているのは英国のウィリアムソン司教。88年に前法王ヨハネ・パウロ2世の許可なく聖職者に就任したとして破門されたが、今年1月、超保守派との和解を図るベネディクト16世によって破門を解除された。

 ところが、同司教が昨年11月、ドイツでスウェーデンのテレビ取材に対し「ヒトラーの政策で600万人のユダヤ人がガス室で殺されたというが、それを否定する歴史的証拠があると思う」などと発言していたことが問題になった。

 今月3日にはベネディクト16世の出身国ドイツのメルケル首相が「放っておけない問題だ。法王やバチカンの(問題発言に対する)態度表明は十分ではない」と述べるなど、破門を解除した法王に批判が集まっていた。

 ドイツ刑法は、ナチスによる大量虐殺の否定や矮小(わいしょう)化を最長5年の禁固刑と定め、厳しく対処している。

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2009年2月 3日 (火)

ガス室で使われたとされるチクロンBについて

ツィクロンB(サイクロンB)について     西岡昌紀
http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/172.html

投稿者 西岡昌紀 日時 2009 年 1 月 30 日 19:53:10: of0poCGGoydL.

   

(転載歓迎)


『マルコポーロ』廃刊事件から14年が経ちました。今も、多くの方が、ネット上で
あの事件に言及し続けておられます。そして、その中で、事件の切っ掛けに成った
私の記事(『戦後世界史最大のタブー・ナチ『ガス室』はなかった』)に言及され
る事が有りますが、この記事には、当時の私の不勉強を反映した誤りや不正確な
記述が有りました。特に、「ガス室」で殺人目的に転用されたと言はれる青酸系
殺虫剤ツィクロンB(Zyklon B)の物性と毒性について、私は、同記事
の中で、大きな誤りをおかして居ます。具体的には、『マルコポーロ』の記事の
中で、私は、ツィクロンBが青酸ガスを遊離し終えるのに長時間を要する事と、
同剤の毒性の強弱の問題を混同し、ツィクロンB(サイクロンB)の毒性が低い
かの様な記述をして居ます。これは大きな間違いですので、この場で、再度訂正
を重ねさせて頂きます。繰り返しますが、これは、当時の私の不勉強と不注意に
よる物です。この誤りについて、私は、既に廃刊事件直後の1995年から、
パソコン通信のPC-VANで自己批判と訂正を行なって居ます。又、1997
年に発表した私の単行本(『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は
何だったのか?』日新報道・1997年)の中でも、そうした自己批判と訂正を
繰り返して居ますが、『マルコポーロ』廃刊事件から14年が経った今も、そう
した私の自己批判と訂正が十分に伝わって居ないと感じて居ます。『マルコポー
ロ』廃刊事件から14年目の日に当たって、この点について、あらためてお詫び
を申し上げると共に、1997年の単行本(『アウシュウィッツ『ガス室』の
真実/本当の悲劇は何だったのか?』日新報道・1997年)で私が述べたツィ
クロンB(サイクロンB)の物性に関する記述を以下に引用する事で、訂正を繰
り返させて頂きたいと思ひます。

(「ナチのガス室」が実在した物証が存在せず、当時のドイツが、ユダヤ人を差別、
迫害をした事自体は明白であるが、ユダヤ人を「絶滅」しようとまでした証拠は無い、とする私の見解自体は、当時も今も変はり有りません。)


2009年1月30日(金)

マルコポーロ廃刊事件から14年目の日に

                       西岡昌紀


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チクロンBは、青酸ガスを遊離します。そして、青酸ガスは猛毒です。ですから、そのことだけを考えれば、「チクロンBによる大量殺人」という話は、何も不 合理ではないように思われるかも知れません。しかし、こうしたこうしたことをするのに一体どれだけ時間が必要か、ちょっと定量的に考えてみたいのです。 今、「定説」側が説明するように、「大量殺人」の目的で、チクロンBを「ガス室」に投げ込んだとしましょう。すると、投げ込まれたチクロンBは、先に述べ たような原理で青酸ガスを遊離し始めます。ところが、ここで考えなければならない問題があるのです。それは、そうした青酸ガス遊離がどれくらい続くのか、 という問題です。即ち、青酸ガスを吸収または吸着したパルプ片など(チップ)が「ガス室」に投げ込まれる。そして、その投げ込まれたチップから青酸ガスが 遊離し始める。それは分かります。しかし、それでは、その青酸ガスの遊離が完全に終わるまでに、一体どれくらいの時間が掛かるのか。それを考えなければな りません。即ち、缶を開けてチクロンBの中身(パルプ片などのチップ)を出すと、それらのチップは青酸ガスを遊離し始めます。それを「ガス室」に投げ込ん だのだと「定説」は言うわけですが、ここに重大な問題があります。それは、投げ込まれたチップからの青酸ガス遊離が終わらない内は、「ガス室」内部での青 酸ガス遊離は続くということです。従って、その間は、「ガス室」を換気することは無意味ということになります。また、当然のことながら、その間は、「ガス 室」の扉を開けることも、その中から死体を搬出することもできません。
 ですから、その「ガス室」での「大量殺人」に従事する作業員たちは、たと え「ガス室」の中の人間が全員死んだとしても、「ガス室」内部でチクロンBが青酸ガスを遊離し続ける間は、「ガス室」の扉を開けることもできず、その外で 待ち続けなければならなかったはずなのです。ところが、戦前チェコのプラハで発行されていたチクロンBの使用指示書(NI-9912)や、チクロンBの製 造元が発行していた使用説明書を読むと、こう書かれてあるのです。チクロンBから青酸ガスが遊離し続ける時間(Einwirkungszeit)は、摂氏 5度以下の場合で32時間、加熱すれば遊離は早まり、この時間を短縮できるが、それでも最低6時間にはなる、と。つまり、気温によって差はありますが、一 旦チクロンBを缶から出したら、最低でも6時間は、青酸ガスを遊離し続けるということです。それどころか、気温が低ければ(摂氏5度以下の時)、32時間 も青酸ガスが遊離し続ける場合もある、ということなのです。ですから、もしそのチクロンBを「ガス室」に投げ込んだら、投げ込まれたチクロンBは、5度以 下では32時間、加熱した場合でも最低6時間は、青酸ガスを遊離し続けることになるのです。当然、その間は、たとえ「ガス室」内部の人々が全員死亡したと しても、「ガス室」を換気することも、扉を開けることもできない、ということになります。その上、プラハで発行されていた前述の使用指示書 (NI-9912)や、チクロンBの製造元が発行していた使用説明書を読むと、こんなことも書いてあるのです。チクロンBを使って倉庫などの害虫駆除を行 なった場合、その倉庫などの換気にどれくらい時間をかけるべきか、という記述があるのですが、それらによると、10時間から20時間の換気をしないと安全 ではない、というのです。つまり、チクロンBが遊離する青酸ガスに、壁などに吸着し易いという物理的性質があるからだと思われます。(また、別の資料に は、こうした吸着性の故に、強制換気をしてもあまり変わりがなく、それよりも長時間、自然の通風によって換気した方がよいという記述があるそうですが、こ の資料は、私自身は未入手で読んでいません) いつ、どんな場所でも、このような長時間の換気が必要だったとは思いませんが、今論じている「ガス室」の場合、中空の部屋などではなく、人間の体でびっし りと満たされた空間なのですから、普通の倉庫などよりも換気が困難なことは想像するまでもありません。そこで仮に、この数字をそのまま適用すると、チクロ ンBで「ガス室処刑」を行なった場合、これだけ時間が掛かることになります。前述のように、チクロンBの青酸ガス遊離が終わるまでに最短でも6時間、最長 で32時間。そして、換気に10時間から20時間というわけですから、合計して、最短で16時間、最長で52時間。「ガス室」にチクロンBを投げ込んで 「処刑」を開始してから、「ガス室」の換気を終了するまでに、これだけ時間が掛かるということです。これが、「民族絶滅」の方法なのでしょうか?

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』 (日新報道・1997年)217~220ページより)



 

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2009年1月30日 (金)

『ガス室』の真実」第二章(「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか)全文(転載自由)   西岡昌紀

        --第二次世界大戦前夜から大戦中、ナチスドイツは、ユダヤ人を差別、迫害しました。そして、その結果、多くのユダヤ人たちが、筆舌に尽くしがたい苦難を経験しま
した。このことには、一点の疑いもありません。また、ユダヤ人のみならず、その他
多くの人々がナチスドイツによって苦しめられたことも明白な史実です。こうしたことについては、細部の検証は必要と思いますが、基本的に異論を唱えるつもりはないので、この本ではあえて論じません。しかし、そのドイツは、多くの歴史家が断言する
ように、ユダヤ人を「絶滅」しようとまでしたのでしょうか?--「絶滅」まで。そして、その目的で、ドイツは、「ガス室」によって、何百万人ものユダヤ人を処刑したの
でしょうか?この本では、この問題に関するこうした従来の主張を便宜的に「定説」と
呼ぶことにしますが、「定説」とは、旧連合国が戦後ニュールンベルク裁判などを通じて発表し、それに従う歴史学者やマスコミが語り続ける説明のこととご理解下さい。
その「定説」によれば、ナチスドイツは、

(1)ユダヤ人をただ迫害しただけではなく、「絶滅」しようと計画し、
(2)そのために、他のユダヤ人収容所とは別に、「絶滅収容所」と呼ばれる特別の
   収容所を幾つか作り、
(3)それらの「絶滅収容所」に処刑用ガス室を作って、ユダヤ人を大量に処刑し、
   死体を焼却した

ということになっています。

こうした「定説」の説明の内、一番注目して頂きたいのは、(1)の「ドイツはユダヤ
人を絶滅しようとした」という主張です。即ち、既に述べましたが、「定説」側歴史家
によれば、ドイツは、ただユダヤ人を殺したのではないのです。彼ら(「定説」側歴史
家)は、ドイツはユダヤ人を「絶滅」しようとした、と言っているのです。つまり、議
論の出発点なのでもう一度繰り返しますが、ドイツは第二次大戦中、ユダヤ人のみなら
ず、ポーランド人やロシア人の非戦闘員をも多数、殺害しています。これは、事実で
す。しかし、それについて「定説」側は、ポーランド人やロシア人は基本的には、戦争もしくはその延長上の事由で殺されたのであって、「絶滅」の対象にされたのではない。それに対して、ユダヤ人の場合は、ただユダヤ人であるというだけの理由で、
「絶滅」させられようちしたのだ、と言うのです。「定説」にとって一番重要な主張
は、実は「ガス室」よりも、むしろこの「絶滅」という政策があったとする点にあると
言えます。そして、こうした政策を計画、実行した国家は、前にも後にも例がないと、
「定説」は強調します。そして、その「ユダヤ人絶滅」の手段として「ガス室」が利用
されたと「定説」側は言うのですが、ドイツは本当に、ユダヤ人をただユダヤ人だとい
うだけの理由で「絶滅」するといった「歴史上類を見ない」政策を計画、実行したので
しょうか?--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)44~46ページより)

--「ユダヤ人絶滅」という政策があったかどうかはこの後論じるとして、
皆さんの大部分は、「ナチのガス室」の存在は疑いようのない事実だと思って
おられるに違いありません。しかし、その根拠を自分自身で吟味した方は、殆ど
おられないことと思います。そこで、逆にお尋ねしたいと思います。皆さんは、
歴史家たちが、一体何を根拠に、この「ガス室大量殺人」を事実として語り続け
てきたのか、お考えになったことがあるでしょうか?或いは、テレビや新聞が、
何 を根拠に「ガス室」の存在を繰り返し語り続けてきたのか、その証拠を確かめてみたことがおありでしょうか?結論から言いましょう。驚くべきことに、何も物 的証拠がないのです。本当です。これだけ多くの本が書かれ、テレビドラマや映画で描かれてきた「ナチの『ガス室』」が実在し、使われた証拠は、実は何もな いのです。あるのは「証言」だけで、何も物証はないのです。その上、そうした「証言」には、後で述べるように、一貫性がなく、さらに、科学的に不合理な点 が余りに多いのです。ですから、このことを知った今、私は、この「ナチの『ガス室』」の存在を最早信じることはできません。しかし、「証言」の問題は後で 詳しく論じるとして先ず、この何も証拠がないという私の結論に耳を傾けて頂きたいと思います。もう一度言いますが、「証言」はあります。しかし、物的証拠 は何もないのです。「そんな馬鹿な!」とおっしゃる方が
大部分のことだと思います。これだけ、新聞やテレビが繰り返し映像まで示して語り続けてき た「ガス室大量殺人」に、「証言」の他に何も証拠がないなんて、そんな馬鹿な話があるか、とお思いになるのは、至極当然のことです。しかし、それでは、次 の事実は、どう考えたらよいのでしょうか?第二次大戦中、ドイツは、何百万人ものユダヤ人ほかの人々を、「ガス室」で、「毒ガス」によって殺したというこ とになっています。では、その死体は、一体、何体くらい確認されているのでしょうか?驚かないで頂きたいと思います。実は、一体も確認されていないので す。戦後、これだけ「ドイツはガス室で大量殺人を行なった」と言われながら、その「ガス室」で殺された死体は、実は一体も確認されていないのです。「ガス 室」の話を知らない方は殆どおられないと思いますが、その「ガス室」で殺された死体が実は一体も確認されていなかったという事実を、皆さんは、今日までご 存知だったでしょうか?--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)46~48ページより)

-- 詳しくお話ししましょう。先ず、確認しておきます。ドイツは第二次大戦中、自国及び占領したヨーロッパの支配地域に多数の収容所を作り、ユダヤ人を収容し ました。これは間違いがありません。そして、戦争末期、ソ連軍を含めた連合軍は、ヨーロッパの東西からドイツ支配地域に攻め入り、そうしたナチの収容所の 状況を目のあたりにしています。問題は、連合軍がそこで何を発見したかです。事の真偽は別として、連合国は、そのずっと以前から、「ドイツは、収容所でユ ダヤ人を大量に殺害している」といった宣伝を行なっていました。つまり、実際にナチスの収容所に足を踏み入れる前からそうした宣伝をいたわけですが、戦争 末期になると、連合軍は、実際にドイツの支配領域にあったそれらの収容所に足を踏み入れることになります。その際、彼ら連合軍が発見したものが、写真のよ うな光景です。これは、ドイツ北部の収容所ベルゲン・ベルゼン(Bergen-Belsen)収容所でイギリス軍が撮影した写真の一枚ですが、このように 連合軍は、戦争末期にヨーロッパ各地でナチスの収容所の足を踏み入れた時、そこで、このような数多くの死体を発見しています。その数は大変なもので、そこ に足を踏み入れた連合軍の兵士たちは、こうした死体の山に直面して、大変な衝撃を受けています。ところが、ここに重要なことがあるのです。それは、これら のおびただしい死体を調査した連合軍は、その際、チフスなどによる病死者の死体は多数確認したものの、肝心の「ガス室」で、つまり何らかの「毒ガス」で殺 された死体は実は一体も確認できなかった、という医学的事実なのです。もう一度、言いましょう。連合軍は、「ガス室」で殺された死体は一体も確認できな かったのです。--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)48~49ページより)

-- 「そんな馬鹿な!」と言われるかも知れません。しかし、これは、驚くべきことに、他でもない「定説」側の歴史家が言っていることなのです。ラウル・ヒル バーグ(Raul Hilberg)教授という、何と、「定説」側の超大物歴史家が、自分でそう言っていることなのです。つまり、「ガス室」があったと主 張する側の歴史家自身が、そのガス室大量殺人の物証である「ガス室」で殺された死体は当時、確認されていなかったと、はっきり認めているのですが、皆さん は、これをどうお考えになるでしょうか。しかも、このことを法廷で--ですから、もちろん宣誓しているはずです。--問われて答えているのですから、「定 説」側の重鎮である大物歴史家が自ら「保証」したようなものです。そして、このことは、後で述べるように、当時ヨーロッパにいた唯一の法医学者だったと自 認するアメリカの医師チャールズ・ラーソン(Charles Larson)の証言ともほぼ符合しているのですが、これでは、死体なき殺人事
件のようなものではないでしょうか。--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)49~50ページより)

-- そう言うと、皆さんの多くは当惑して、次のように言われると思います。--テレビの「資料映像」などでも現にこうしたナチス収容所で発見された死体の山を 見ることがあるが、あれは一体何なのだ?と。当然の質問です。しかし、ちょっと待って下さい。先にお見せした写真を含めて、こうした死体の映像は、今お話 ししたように、戦争末期から直後にかけてナチス収容所を開放した際、連合軍が撮影したものです。それらは、もちろん悲惨な光景です。しかし、ちょっと考え て欲しいのです。こうした死体の映像は、「ガス室」の存在を証明する物的証拠なのでしょうか?悲惨極まりない映像ではありますが、一体どうして、写真(映 像)だけで、チフスなどによる病死者の死体と「毒ガス」による犠牲者の死体を区別することができるのでしょうか?死体が幾らたくさん写されていても、それ だけでは、死因が何であったのかは分かりません。つまり、写真などによる死体の映像だけでは、「ガス室」による大量殺人が行われたという証拠にはなりよう がないのです。普通、死体の死因を特定するには、病理学者とか法医学者などと呼ばれる医学の、それも非常に専門的な分野の専門家による解剖が絶対に必要で す。それも全身の解剖が、です。(髪の毛の分析などでは駄目)。ですから、ああした数多くの死体が「ガス室」で「毒ガス」によって殺された犠牲者だったか どうかは、そうした専門家による解剖の後、初めて分かる事なのです。ところが、前出のヒルバーグ教授は、「定説」側の重鎮ですが、1985年に、法廷で問 われて、戦争末期から直後の時期に、そうした解剖によって「ガス室」で殺された死体が確認されたことは全くなかったことを、はっきり認めているのです。 --

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)50~51ページより)

-- また、先ほども触れましたが、戦争中、アメリカ軍に従軍して、ドイツの収容所で発見された死体を多数解剖した医学者にチャールズ・ラーソン博士という医師 がいます。このラーソン博士は、法医学者でありまた病理学者でもあった高名な医学研究者ですが、後年、自分のそうした特異な体験を回想して、注目すべきこ とを洩らしているのです。ラーソン博士によれば、当時ヨーロッパでそのような医学的調査をしていた専門家は博士ただ一人だったろうとのことです。ところ が、そのラーソン博士が、西部戦線の収容所でアメリカ軍が発見した数多くの死体について、こう述べているのです。--「中毒(poisoning)による 例は一つも発見できなかった」
この「中毒(poisoning)」という言葉には、当然、「毒ガス」による事例も含まれるはずです。もっとも、 ラーソン博士のこの言葉は西部戦線に関するものですから、アウシュウィッツをはじめとするポーランド領内の収容所は彼の体験外ということにはなりま す。(後述)しかし、その点を含めて「定説」側を代表する歴史家(ヒルバーグ)が何と言っているかと言えば、前述のように、当時、解剖によって「ガス室」 で殺された死体が確認されたことは全くなかったと、はっきり認めているわけなのです。--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)51~52ページより)

-- このことについて、さらにお話ししたいと思います。皆さんは、テレビなどで、ナチスの収容所で発見された死体の山を見たことがおありと思います。そして、 そうした映像を見て、「ドイツガス室でユダヤ人を殺した」と信じ込んでいる方が多いのではないかと思います。しかし、そうした死体の山は、「ガス室大量殺 人」の「証拠映像」などでは全くないのです。例えば、先ほどお見せした写真は、ベルゲン・ベルゼン収容所という収容所で撮影された写真の一枚でし た。(48ページ)もう一度、ご覧になって下さい。このように、穴の中に被収容者たちの死体が山積みされた恐しい写真を写したもので、テレビの「ドキュメ ンタリー」などで「ホロコースト」が扱われる際には必ずと言っていいほど、このベルゲン・ベルゼンの死体の映像が出て来ます。ドイツ北部にあったこの収容 所は、あのアンネ・フランクがその短い生命を終えた場所として有名ですが、戦争末期にイギリス軍によって解放され、こうした映像が記録されていたのです。 それで、その時イギリス軍が撮影したこれらの映像が今もマスメディアで頻繁に利用されているのですが、この映像は「ガス室」が存在したことの「証拠」なの でしょうか?こうした映像が悲惨な映像であることは間違いありません。しかし、この映像が「ガス室大量殺人」の「証拠」かと言えば、それは別の話です。そ れどころか、決定的なことに、このベルゲン・ベルゼン収容所については、そこに「ガス室」がなかったことを、「定説」側の人々自身が認めているのです。即 ち、「定説」側の人々は、もちろん、ドイツが「ガス室」で「大量殺人」を行なったことは主張します。しかし、アウシュウィッツなどに「ガス室」があったと いう主張は頑(かたく)なに守りながら、例えばこのベルゲン・ベルゼン収容所に「ガス室」がなかったことは、はっきり認めているのです。例えば、このよう に
--「アンネとマルゴットは、十月二十八日にベルゲン=ベルゼンへ輸送された。(中略)リューネブルグ原野の不毛地帯にあったこの収容所[西岡 注:ベルゲン・ベルゼン収容所を指す]には、実はガス室はなかったが、生活諸条件はそこでは、とりわけ最後の数カ月には非常に悪く、数万人の人々が死んだ のである。」(ウィリー・リントウェル著 酒井府+酒井明子訳『アンネ・フランク最後の七ケ月』徳間書店)--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)52~54ページより)

-- ベルゲン・ベルゼンの生活諸条件が劣悪で、そのために多くの病死者が出たことは、全くその通りだと思います。そして、それが悲惨極まりない悲劇であったこ とは、見直し論者も完全に同意していることです。しかし、注目して頂きたいのは、ベルゲン・ベルゼン収容所について、「定説」側論者(ウィリー・リント ウェル氏)が書いたこの本にこう書かれてあることです。

    「この収容所には、実はガス室はなかったが」

即ち、こ のベルゲン・ベルゼン収容所に「ガス室」はなかったのです。他の収容所はともかくとして、とにかく、このベルゲン・ベルゼンに「ガス室」がなかったこと は、「定説」側も認めているのです。つまり、後で述べますが、「定説」側の人々は、ナチスの収容所の何処(どこ)にでも「ガス室」があったと言っているの ではないのです。「定説」側論者は、ナチスドイツはヨーロッパ各地に数多くの収容所を作ったが、「ガス室」を作ったのはその内の幾つかに限られていた、と いう意味の説明をしています。そうしたことについてはこの後で論じますが、今ここで重要なことは、このことです。先の写真が撮影されたベルゲン・ベルゼン 収容所は、このように、「定説」側の主張においても「ガス室」はなかったとされている収容所なのです。それならば、この収容所で発見された死体の中に「ガ ス室」で殺された死体があったわけがないではありませんか。(違うでしょうか?)病死者がたくさんいたことは事実です。そして、それは悲惨極まりないこと です。しかし、事実の問題として、そこには「ガス室」がなかったのだから、この中に「ガス室」で殺された死体
があったわけがないのです。ところ が、テレビなどのマスメディアは、何故か、ベルゲン・ベルゼンで撮影されたこの映像を今も「ガス室大量殺人」の「証拠写真」でもあるかのように使用し続け ているのです。例えば、「アエラ」やNHKすらが、そういうことをしています。虚を突かれる気がすると思いますが、これが、「ホロコースト」についてのマ スメディアお手法の一つなのです。これは、「映像トリック」と言われても仕方のない手法ではないでしょうか?--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)54~55ページより)

--ここで私は、皆さんに或る映像を思い出して頂きたいと思います。それは、1991年の湾岸戦争の際、「イラクがペルシャ湾に原油を放出した」という触れ込みで世界中に流された、あの衝撃的なテレビ映像です。即ち、クウェートを占領したイラク軍が、その
ク ウェートで大量の原油をペルシャ湾に放出した。そのため、ペルシャ湾は原油で広範に汚染され、このように罪のない海鳥までが油まみれになって苦しめられて いる、という「解説」で放映された、あの戦慄すべき映像です。黒い原油に汚染された海岸で、この水鳥が油にまみれて立ち尽くす姿は本当に心痛むものでした が、皆さんは、この映像が実は「イラクの原油放出」などとは何の関係もないものであったことをご存知でしょうか?詳しいことは、ジャーナリストの木村愛二 さんが書いた『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)に述べられているのでお読み頂きたいと思いますが、世界中で放映され、イラクに対する全世界の怒りを引き起 こしたこの映像は、実は、「イラクの原油放出」などとは全く関係のない映像だったことが、今日明らかになっているのです。即ち、この水鳥が海岸で油まみれ になっていた理由は、実は「イラクの原油放出」ではなく、アメリカ軍の空爆で流出した原油が海に流れ出したためだったらしいことが、今日では判明している のです。(少なくとも、当初言われた「解説」が虚偽であったことは、イラクがクウェートで放出した原油なら、海流の速さなどから考えて明白と言えます)し かしながら、それでも、この映像が「イラクの原油放出」による光景だとう「解説」は一旦は世界の人々に信じられてしまったわけで、これは、映像の持つ心理 的効果がいかに強力なものかを示す一例と言えます。つまり、映像というものは、それに加えられる「解説」によって、受け止める側に全く違った心理的効果を 与える
ものなのです。--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)55~57ページより)

-- この水鳥の映像の場合も、それが「イラクの原油放出によってもたらされた」という話とともに見せられるのと、「アメリカの空爆の結果」という説明とともに 見せられるのとでは、見る側に対する意味影響が全く違うことは、言うまでもありません。それは、湾岸戦争初期にこの映像が前者の「解説」とともに放映され た際、欧米を中心にイラクへの激しい怒りの声が上がり、イラクに対して戦術核兵器を使うべきだという声までが上がった事実に現われていると言えます。この ように、映像というものは、それに与えられる物語や文脈によって、本来の意味とは全く違う意味のものとして人々の脳裏に刻み込まれてしまうという、恐ろし さをはらんでいるのです。先ほどの死体の映像も同じです。アウシュウィッツなどについては後で論じますが、このベルゲン・ベルゼン収容所に「ガス室」など なかったことは、前述したように、「定説」側も認めているのですから、少なくともこのベルゲン・ベルゼンで「ガス室」によって殺された人が
一人も いなかったことは、最早、議論の余地のないことなのです。当然、そこで発見された死体の中に「ガス室」で殺された死体が含まれているわけもありません。後 述するように、これらの死体の大部分は、戦争末期に大発生したチフスなどによる病死者たちの死体だったのです。それは勿論、悲惨な映像ですが、「ガス室大 量殺人」の「証拠」などでは全くないのです。ところが、私たちは、マスメディアによって、この映像がまるで「ガス室」で殺された人々であったかのように錯 覚させられています。テレビの「ドキュメンタリー」などでは、多くの場合、はっきりした解説を付けずにこの映像を見せるという手法を取っていますが、「ユ ダヤ人虐殺」を語る時に、見る側が、どう見ても病死者などとは思わず、「ユダヤ人虐殺」の犠牲者だと錯覚するようなやり方で、この病死者の映像が使われて いるのです。これが、湾岸戦争の「油まみれの水鳥」と余りにも似ていると思うのは、私だけでしょうか?--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)57~58ページより)

-- もう一度言いますが、解放直後のナチス収容所で、連合軍側の法医学者または病理学者によって「毒ガス」で死亡したと確認された死体は、一体もなかったので す。これは、「定説」側の歴史家が認めた事実です。発疹チフスなどの病気で死亡した死体は、そうした解剖の結果、多数、確認されています。しかし、青酸ガ スとか一酸化炭素などの中毒で死亡した死体は、実は、一体も確認されていなかったのです。(「定説」によれば、ドイツが「ガス室」で使ったとされる「毒ガ ス」は、青酸ガスと一酸化炭素の二種類)。それなのに、戦後、多くの「歴史家」やジャーナリストたちは、こんな基本的なことも言わぬまま、ただ、そうした 病死者たちの死体を写真で見せながら、「ガス室で何百万人もの人々が殺された」等と書きまくってきたわけです。また、眼鏡や靴がいくら山のように積まれて いても、「ガス室大量殺人」があったことの証明にならないことは言うまでもありません。それらの物の持ち主たちが、「ガス室」で殺された証明は何処にもな いのですから。しかし、こうした物品を「証拠」だと思いこんでいる人 も少なくありません。これも、そうした物品に与えられる「説明」の効果ですが、こうしたことは、ちょっと冷静になればすぐに分かるのです。しかし、その冷 静になることができないために、このような物品を「証拠」と錯覚している人は少なくないようです。--

(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)58~59ページより)

-- それから、もう一つ驚くべき事実があります。戦後、これだけ「ドイツはユダヤ人絶滅を計画した」と言われてきながら、そんなことを命じた命令文書は、実は 一枚も発見されていないのです。即ち、連合軍は、戦後ドイツで膨大な量のドイツ政府公文書を押収しています。ところが、その膨大なドイツ政府公文書の中 に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書があったかというと、実は、一枚も発見されていないのです。これは、 「定説」側の歴史家たちもはっきり認めていることですが、「ユダヤ人絶滅」を決定命令した文書が存在しないことについて、私は「マルコポーロ」の記事の中 で次のように書いています。

「連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討 し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。ところが、 戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったので ある。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。これに対して は、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全 て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見さ れていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭
でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。」(『マルコポーロ』1995年2月号「ナチ『ガス室』はなかった」)

 私のこうした指摘に対して、「定説」側の歴史家が、「マルコポーロ」廃刊事件後、論評を加えて居るので、ちょっと御紹介したいと思います。先ず、ドイツ史が専門の栗原優(まさる)教授は、こう書いておられます。
「ユダヤ人絶滅に関するヒトラーの命令書が存在しないのは事実である」(学研『歴史群像シリーズ』42/アドルフ・ヒトラー[権力編]“わが闘争”の深き傷痕「ヒトラーと民族社会主義/ナチズムのイデオロギーとその現実」) --

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)59~61ページより)

-- つまり、「ユダヤ人絶滅」に関する(ヒトラーの)命令文書が存在しないという点については、「定説」側の栗原教授も同意しておられるわけです。それでは、 何を根拠に「ユダヤ人絶滅」が命じられたと主張しておられるのか、それは後で触れますが、栗原教授と同様、「定説」側の歴史家である村瀬興雄(おきお)教 授は、こう述べておられます。
「この大号令[西岡注:「ユダヤ人絶滅」を指す]が文書によって発令されたことはない」(同「ヒトラー体制とドイツ(4)最新ナチ
ス編/次第に明らかにされて来た第三帝国」)
  お分かりでしょうか?このように、そんな文書が存在しないことは、「定説」側の歴史家自身がはっきり認めているのです。では、彼らはこの事実をどう説明し ているのでしょうか?それは、私が先の「マルコポーロ」の記事で書いた通り、「ユダヤ人絶滅は口頭で命令されたのだ」等と説明するのです。しかし、今述べ た通り、それは単なる想像に過ぎません。そんなことが口頭で命令された証拠は何処にもないのです。また、「文書はあったが隠滅された」等という「説明」も 全くの想像に過ぎません。それどころか、後で述べますが、「絶滅」とは両立しない命令が出されたことを示す文書が多数、発見されているのです。(後述)
 つまり、もう一度言いますが、これだけ「ドイツはユダヤ人絶滅を計画した」と言われながら、そのような決定や命令を裏付ける文書は、実は一枚も発見されていないのです。あるのは、ただ、そんな命令が出されたに違いないという「定説」側歴史家の想像だけなのです。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)61~62ページより)

-- そういう命令文書がないので、何か代わりの文書を提示しなければ、ということなのでしょう。「定説」側論者の中には、「ヴァンゼー会議議事録」と呼ばれる 文書とか、ゲーリングが1941年7月31日に書いた手紙、またはヒムラーが43年10月4日に行なった演説の「筆記録」とされる文書などを引用して、そ れらの中で「ユダヤ人絶滅」が間接的な形で言及されている、と主張する論者もいます。しかしながら、原文を読めば分かることですが、これらの文書の内容 は、「ユダヤ人絶滅」を語ったものなどでは全くないのです。
 例えば、今挙げた「ヴァンゼー会議議事録」という文書は、戦後、連合国が「発見し た」として発表した文書で、ベルリン郊外のヴァンゼーという場所で開かれた秘密の会議を記録した文書ということになっています。この文書が、「ユダヤ人絶 滅」について協議した会議の記録であるかのような説明が永年に渡って横行していますが、先ず、この文書の中には、「ユダヤ人絶滅」を決定したなどという記 述は全くあろません。ですから、仮にこの文書が正真正銘ドイツ政府の文書だったとしても、この文書は、「ユダヤ人絶滅」を決定したことの記録などではあり 得ません。その上、この文書は、前述のように連合国が「発見」したとされるものですが、その書式がドイツ政府公文書のものとは違いすぎるという資料批判的 な指摘もあり、本物のドイツ政府文書かどうかにも議論の余地が残されているものなのです。こうしたことのためか、最近では、「定説」側の論者でも、イェッ ケル(Jaeckel)とかプレサック(Pressac)といった論者たちは、この文書を「ユダヤ人絶滅」が決定されたことの証拠として持ち出すことには 否定的な立場を取るようになっています。また、前述のゲーリングの手紙やヒムラーの演説の「筆記録」も、文章の一部を全体の文脈から切り離して読むと「ユ ダヤ人絶滅」に関係があるかのように見える箇所があるのですが、全文を読むと、そんな内容ではないことが明瞭に理解できるものです。これらの文書をここに 引用することはしませんが、皆さん一人一人がそれらの原文を読んで下されば、必ず納得して頂けるはずです。
 ここで、前出の栗原優教授の説明をもう一度聞いてみましょう。
「ユダヤ人絶滅に関するヒトラーの命令文書が存在しないことは事実である。しかし、ヒトラーがこの時点でユダヤ人絶滅を決定したことを立証する資料は存在する。おそらくそれは口頭で命令されたのであろう。」(学研『歴史群像シリーズ』42)
  「おそらくそれは口頭で命令されたのであろう」とは、想像に過ぎないではありませんか(!)しかも、その「ヒトラーがこの時点でユダヤ人絶滅を決定したこ とを示す資料」とは一体何を指すのでしょうか?(もしや「ヴァンゼー会議議事録」のことでしょうか?)栗原教授は、何故か、この一番大事な点を言っておら れないのです。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)62~64ページより)

-- それから、ヒトラーの若い頃の著作である『わが闘争』や彼の演説の中に「ユダヤ人絶滅」の予告があるという論者もいます。しかし、これは全然おかしいので す。先ず、本や演説は、行政命令ではありません。ですから、そんなものを命令文書と同列に見なすことがそもそも間違っています。また、それらの引用される 言葉を前後の文脈とともに読むと、引用されている「ユダヤ人絶滅の予言」なるものが実はそんなものではないことも良く分かります。例えば、ヒトラーの著作 『わが闘争』の中に「毒ガス」の話とユダヤ人の話が並んで出てくる箇所があり、それを「ユダヤ人絶滅の予告」と見なす論者がいますが、これなどは、『わが 闘争』の該当箇所を前後の文脈とともに読めば、その意味が分かります。即ち、その箇所は、「ガス室によるユダヤ人絶滅」などに言及しているのではなく、第 一次世界大戦でドイツ兵が敵の毒ガスに苦しめられていた時、ユダヤ人たちは何をしていたのか、といった意味の文章の一部に過ぎないのです。それがおぞまし いオジテーションであることは確かですが、「ガス室によるユダヤ人絶滅」などとは全く関係のない話であることは余りにも明白です。これは、故意かどうかは 知りませんが、文章の文脈からその箇所だけを切り抜いて見せる「引用のトリック」と同じものと言わざるを得ません。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)64~65ページより)

-- また、ヒトラーが1939年に、もし今度、世界大戦が起きたら、それはユダヤ民族の滅亡に終わるぞ、という意味の演説をしたことを引いて、「ユダヤ人絶滅 計画」が存在したことの証拠であるかのように言う論者もいます。しかし、これもあかしい。確かに、そういうひどい演説はありましたが、これですら、仮定形 で述べられているのであって、そんなことを決定したとか、命令したとかいう発表ではないからです。以前、北朝鮮の代表が、或る席で韓国の代表に対して、そ んなことならソウルは火の海になるぞ、という意味の発言をして問題になったことがありましたが、この演説を引いて、「北朝鮮は韓国侵攻を決定した」と断じ る人はいないはずです。また、そうした演説の中で、ヒトラーが文字通りの物理的絶滅を意味してそういう言葉を使用したかどうかも、全くの疑問です。特に、 「絶滅する」と訳されることの多い「vernichten」という動詞には、「打倒する」とか「否定する」とかいう意味もあります。ですから、仮にこの言 葉がヒトラーなどの演説で使われたとしても、それが言われているような「民族皆殺し」の意味だったとは限りません。こういう点で、「ホロコースト」を論じ た日本語や英語の本に出てくる「絶滅」とか「exterminate」とかいった訳語には最大の注意が必要です。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)65~66ページより)

-- そもそも、演説とは、誇張やハッタリが日常茶飯事に使われるもので、その中の表現を行政命令などと同様に解釈することは、全くもって間違っています。減税 などする気がないのに「減税する」と演説する政治家など枚挙にいとまがないことは、皆さんもよくご存知の通りです。また、戦争をする気がないのに「戦争を するぞ」と言うこともあれば、戦争をしようとしながら、「戦争はしない」と演説することもあります。その上、その場の雰囲気などによって、著しく誇張され た表現が使われることも枚挙にいとまがありません。一例を挙げましょう。第二次大戦末期にアメリカ軍が沖縄に上陸した際、アメリカのハル ゼー(Halsey)大将は、アメリカ兵たちに向かってこんな演説をしています。「日本人を殺せ、日本人を殺せ、もっと日本人を殺せ(Kill 
Japs!Kill Japs!Kill more Japs!)」(学研「物語日本史」10『日清日露・太平洋戦争』高村児「太平洋戦争」)おぞましい演説です。
ま た、沖縄では、現に多くの民間人が殺されています。しかし、ハルゼー大将がこう演説したからといって、アメリカが「日本民族絶滅」を計画していたと言える でしょうか?言うまでもなく、そのような計画があったことは立証できません。演説とは、このように、その場の雰囲気によって、誇張された表現や言葉が使わ れるものだからです。
 こうしたことから、「定説」側でも、ヒトラー他のドイツ政府指導者が演説で述べた言葉をそのまま引用して「ユダヤ人絶滅」の言明とすることは批判されるようになっています。例えば、「定説」側の歴史家の一人である前出の村瀬興雄 教授は、次のように書いておられます。
  「さらに公式な演説のなかで、ヒトラーたちがユダヤ人絶滅を絶叫した場合、それは宣伝的で脅迫的な意義しか持っておらず、全面的絶滅命令としての性格を具 えていなかった事も指摘されている。ナチス戦犯が裁判の中で『ヒトラーが命令した』と主張したとしても、それについては確実な傍証が求められねばならない といわれている。」(学研『歴史群像シリーズ』42)
 「定説」側の歴史家ですら、こう言っているわけです。そもそも決定的におかしいのは、もし演説で「ユダヤ人絶滅」が語られたと
し たら、何故、「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書が存在しないのか、ということです。だって、そうではありませんか。もう一度言いますが、そんな命令書 は一枚も存在しないのです。この事実を「定説」側論者は、「ユダヤ人絶滅は口頭で命令されたのだ」と説明するわけですが、その理由は、「ユダヤ人絶滅は極 秘だったから」くらいしか考えようがありません。現に、「定説」側論者たちは、「ユダヤ人絶滅」は極秘の計画だった、という主張をしています。それでは、 そんな極秘の計画が、本や演説の中で(!)公然と語られていたというのは、どういうことなのでしょうか?これは、根本的に矛盾した説明ではありませんか。 --

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)66~68ページより)

-- さらに重要なことは、先ほども触れたように、戦後、連合軍が押収したドイツ政府の公文書の中に、どう読んでも「ユダヤ人絶滅」とは両立しない命令や決定を 明記した文書が、多数、発見されていることです。即ち、ただ「ユダヤ人絶滅」の命令文書がないだけではないのです。「絶滅」とは両立しない決定や命令が為 されていた証拠が、押収されたドイツ政府公文書の中に、多数存在しているのです。
 例えば、1942年8月21日のドイツ政府公文書には、総 統(ヒトラー)は、ユダヤ人を戦後、ソ連領内に強制移住させることを決めている、という意味の記述があります。「絶滅」ではありません。強制移住なので す。それは、もちろん、不当な差別政策ですが、その上、この文書には、アウシュウィッツをはじめとするポーランド領内の収容所は、そうした戦後のユダヤ人 強制移住計画のための準備施設だという意味の記述まであるのです。これが、どうして、「ユダヤ人絶滅」などという計画と両立するのでしょうか?
  他にも、マダガスカルとかロシアなどにユダヤ人を強制移住させることを当時のドイツ政府が計画していたことを示す文書は幾つも発見されており、「定説」側 も、ナチスドイツが、少なくともその初期においては、ユダヤ人を「絶滅」させるのではなく、マダガスカルなどに強制移住させる計画であったことは認めてい るのです。「定説」側は、それが或る時期から「絶滅」に変更されたと主張するのですが、そのような変更が為された証拠は、提示されていません。それどころ か、例えば、ドイツ外務省の高官フランツ・ラーデマッヒャー(Franz Rademacher)などは、42年の2月10日に、次のような文書を発表しているのです。「ソ連との戦争は、一方において、最終的解決 (Endloesung)のための別の土地を得る可能性を生み出している。その結果、(ヒトラー)総統は、ユダヤ人はマダガスカルにではなく、東方に移住 させられるべきであると決定した。マダガスカルは、最早、最終的解決との関係に於いて考慮される必要は
ない」
(訳:西岡 原文は以下の通り)

Der Krieg gegen die Sowjetischeunion hat inzwischen die Moeglichkeit
gegeben, andere Territorien fuer die Entloesung zur Verfuegung zu
stellen. Demgemaess hat der Fuerer entscieden dass Jueden nicht nach
Madagaskar, sondern nach dem Osten abgeschoben werden sollen.
Madagaskar braucht mithin nicht mehr fuer die Entloesung vorgesehen
zu werden.
(Nurenberg Document NG-3933)

  繰り返して言いますが、このような強制移住計画が、差別に基ずいた不当な政策であったことは明白です。しかし、そうした道徳的判断とは別に、事実の問題と して、これは、どう読んでも、ドイツのユダヤ人政策の目標が、言われてきたような「絶滅」ではなく、(ロシアへの)強制移住だったことを示す文書ではない でしょうか?しかも、この文書が書かれた日付け(1942年2月10日)が、前述の「ヴァンゼー会議」があったとされる日付け(同1月20日)の後である ことも重要です。もし、その「ヴァンゼー会議」が本当に開かれ、そこで「ユダヤ人絶滅」が討議されていたとしたら、どうして、その会議よりも後に書かれた この文書に、ユダヤ人の「東方」への強制移住計画が、「最終的解決」を意味するものとして述べられているのでしょうか?
 こうした文書は他にも幾つもあるのですが、「定説」側論者たちは、何故かこういう文書の存在には、殆ど言及しようとしません。
そ して、ただ自分たちの想像だけで、ドイツが当初抱いたマダガスカルへのユダヤ人強制移住計画は或る時期から「絶滅」に変更された、などと一方的に述べるの です。しかし、例えばこの文書がそうですが、連合軍が戦後、押収したドイツの内部文書には、「マダガスカル」を「東方」(ソ連領内と取れる)に変更したと いう、ユダヤ人強制移住計画の内容が、具体的に書かれてあるのです。一体どこに、「民族絶滅」が命令された証拠があるというのでしょうか?--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)68~70ページより)

 

--また、この年(1942年)の12月28日には、アウシュヴィッツ収容所でのチフス等による死亡者が多いことから、同収容所の
死亡率を減らすよう命じた命令が、強制収容所の統括司令部から、アウシュヴィッツの責任者に宛てて出されています。この命令書に
は、ヒムラーの言葉を引用して、何とこう書かれてあるのです。「死亡率は絶対に低下させなければならない」
 一体これが、「ユダヤ人絶滅」と両立する命令かどうか、考えて頂きたいと思います。こうした命令は、ドイツがユダヤ人を労働力と
して利用しようとしたから出されたものだと思いますが、こうした命令に符号するように、アウシュヴィッツ=ビルケナウには、「絶
滅」されるはずのユダヤ人他の被収容者のための病院もあったのです。一体、ユダヤ人を「絶滅」するための収容所に、何故そのユダヤ
人他の被収容者用の病院があったのか、私は、「定説」側の歴史家が納得のいく説明をしているのを読んだことがありません。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)71ページより)


-- さらには、次の事実に注目して頂きたいと思います。戦争中、収容所でユダヤ人に対する虐待が少なからずあったことは事実です。しかし、それと同時に、そう した虐待を理由に、多くのドイツ人が、ドイツ当局によって処罰されているのです。--ユダヤ人を虐待した、という理由によってです。しかも、その中には、 何と、「ユダヤ人虐待」を理由に死刑に処せられたドイツ人すらいたことが、報告されているのです。例えば、ブーヒェンヴァルト収容所の司令官だったコッホ というドイツ人は、そうしたユダヤ人への虐待を理由に、当時のドイツ当局によって死刑に処せられています。ドイツのユダヤ人政策の目標が「ユダヤ人絶滅」 であったとしたら、一体なぜ、「ユダヤ人虐待」を理由に、ドイツ人が、それも収容所の司令官が、死刑に処せられなければならなかったというのでしょ
うか?これは、不条理としかいいようのないことです。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)71~72ページより)

 
-- また、アウシュヴィッツについては、働けないユダヤ人が殺されずに収容されていたことを示す文書も残っています。これは、「働けなくなった者はガス室に送 られた」という話とは全然違う現実があったことを意味しますが、先ほどお話しした病院の存在とあいまって、アウシュヴィッツにユダヤ人が収容された目的 が、「絶滅」ではなかったことの傍証になっているとは言えないでしょうか?
それから、これはあまり知られていないことですが、アウシュヴィッツに 収容された人々の中には、一旦、収容所に入れられた後、ドイツ当局によってそこから出ることを許された者が多数いたことが、ドイツ側の記録から判明してい ます。考えてもみて下さい。もし、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)などが、「極秘の絶滅収容所」だったとしたら、一体ドイツ当局は、そこに収容した 人間を再び解放したりしたでしょうか?そんなことをしたら、解放された被収容者が、そこで起きていることをしゃべってしまうのは火を見るより明らかなこと です。それなのに、アウシュヴィッツを管理していたドイツ当局は、現にそんなことをしていたのです。こうした様々の事例は、ドイツが戦争の中でユダヤ人を 殺したことは勿論多々あったにせよ、ユダヤ人をただユダヤ人だというだけで「絶滅」しようとしたという「定説」側の教義と両立しないものだと思うのです が、いかがでしょうか?--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)72~73ページより)

 
--まだ、あります。これまでお話ししたように、「ガス室」で殺された死体も、「ユダヤ人絶滅」を命じた文書も全く発見されていないのですが、それに加えて、当時のドイツ政府は、何と「ユダヤ人絶滅計画」の予算を計上していないのです。つまり、仮に
そんな大計画があったとしたら、当然、大変な額の予算が計上されるはずなのに、それが全く計上されていないのです。そして、これも「定説」側の歴史家自身が認めている事実なのです。一体、これでも、「ユダヤ人絶滅計画」は実在したのでしょうか?--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)73ページより)

--しつこいようですが、ドイツが罪のないユダヤ人たちを差別、迫害したことは明らかです。しかし、もしドイツがユダヤ人を
「絶滅」しようとまでしたなら、予算を計上せず、そんなことをするなどということが考えられるでしょうか?
「定説」側は、この事実を「ユダヤ人の財産を当てたので、予算は計上されなかった」等と説明していますが、そんな方法でそんな
計画が計画、実行できるかどうか、皆さん自身で考えて頂きたいと思います。--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)73~74ページより)

-- それから、ポーランドが運営するアウシュヴィッツ博物館は、アウシュヴィッツ収容所の敷地にある博物館で、戦争中ドイツ人が残して行ったアウシュヴィッツ 関連の文書や図面を多数、保存していることで知られています。また、ロシアにも、ソ連軍がアウシュヴィッツで押収したドイツ側文書が多数残っていますが、 それらの中に、「ガス室」の設計図とか見積もり書といったものは、結論から言うと、一枚も発見されていないのです。
 例えば、アウシュヴィッ ツ=ビルケナウで今日「ガス室」として公開されている地下室の設計図を見ると、たくさんある図面のどれを見ても、それらの地下室には、「死体安置室 (Leichenkeller)という書き込みがあるばかりで、それらの地下室が処刑用ガス室として設計されたことを示す文書はないのです。そのため、 「定説」側論者の一人は、「これらの部屋は、当初はただの死体安置室として設計され、後からガス室に転用されたのだ」等と説明しているのですが、そんな証 拠は何もありません(後述)。それに、仮にその仮説が正しいとすると、その収容所が建設された当初は、その「ガス室」を作る予定がなかったということにな ります。つまり、「ガス室」を作る計画がない段階で収容所そのものは建設されていたことになるわけですが、これはおかしくないか。何故なら、二つに分かれ たアウシュヴィッツ収容所の内、後から建設された第二アウシュヴィッツ(別名ビルケナウ収容所)の方は、最初から「ユダヤ人絶滅」の目的で作られた、とす るのが、「定説」側のこれまでの説明だったからです。それなのに、もし第二アウシュヴィッツ収容所に、建設当初は処刑用ガス室を作る計画自体がなかったと いうなのなら、この収容所(第二アウシュヴィッツ)が建設された目的が、「ユダヤ人絶滅」ではなかった、ということにもなりかねないわけで、これは、「定 説」側がこれまで主張してきたアウシュヴィッツ(ビルケナウ)に関する説明を根本から書き変えるものです。それどころか、問題の「ユダヤ人絶滅計画」の実 在にすら疑問が投げかけられかねない話なのです。
 この設計図の問題については、プレサック(Pressac)という反見直し論者の研究に触 れる形で後でもう一度触れたいと思います。なお、「定説」側の本の中には、こうした第二アウシュヴィッツの地下室(死体安置室)の設計図や、マイダネック の殺虫用ガス室の図面を処刑用ガス室の図面ででもあるかのように載せている本があります。悪質なトリックですが、日本の歴史家たちは、こういうことに気が 付かないのでしょうか?--

(西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)74~75ページより)

--こうした幾つもの事実から導かれる「ユダヤ人絶滅計画」についての私の判断を、ここで言わせて頂きたいと思います。
    「はじめに」の中で私は、この本の中で「ホロコースト」の「定説」に対してあえて疑問以上のものは提出しないと申し
 上げてげています。しかし、こう考えられるのではないか、ということは言っていいのではないかと思うからです。
   ドイツのユダヤ人政策は、もちろん、不当なものでした。しかし、そのドイツといえど、ユダヤ人を「絶滅」することまでは計画していなかったのではない か。私には、そうとしか考えようがないのです。ただし、これは「否定」ではないので、もし「いや、『絶滅』が計画されたのだ」とおっしゃる方があり、その 証拠を提示して下さるなら--証拠が示されれば、です。--私は、いつでもそれを受け入れます。しかし、私が「定説」側歴史家の主張を詳細に検討したとこ ろでは、そんな証拠は提示されていないし、それどころか、反証が多々存在しているのです。
   先ほど(69ページ)引用したドイツ政府文書 が示すように、ドイツ政府は、戦争に勝利した後、ユダヤ人を「東方」即ちソ連領内に強制移住させることを計画していました。当時のドイツ政府は、そうした 戦後の強制移住計画を「最終的解決(Endloesung)」と呼んでいたのであり、それを「定説」側歴史家たちは、「絶滅」だったと強弁しているので す。もう一度言いますが、それは不当な差別政策です。しかし、「絶滅」ではなかったのです。
 勿論、戦場でユダヤ人の非戦闘員が無差別に処刑 されるというようなことはありました。それは「虐殺」と呼ぶべきことですし、特にソ連戦線では、多くのユダヤ系市民がパルチザンなど混同されて銃殺される ということが、「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)」と呼ばれる特別の部隊によって、現に起きています。また、収容所でユダヤ人に 対する虐待があったことも事実です。しかし、全てのユダヤ人をただユダヤ人だというだけでドイツが「絶滅」しようとしたという話には、根拠もなければ裏付 けもありません。それどころか、右(上)に述べたような反証がたくさんあるのです。そして、収容所では、後述するように、衛生状態の悪化からチフスなどが 発生し、あのアンネ・フランクを含めた、何の罪もないユダヤ人たちが多数、悲惨な死を遂げることになったのです。これは勿論、悲劇であり、このことにドイ ツ人が責任を負っていることも明らかです。
私たち日本人があの大戦中、日本軍によって苦しめられたアジアの人々のことを忘れてはならないのと同様、ドイツ人には、このことを忘れることは許されません。しかし、事実は神聖なものであり、誰にもイデオロギーや感情を理由に事実を歪める権利はないと、私は思うのです。
   それでは、「ユダヤ人絶滅計画」の有無とは別に、「ガス室」は存在したのでしょうか?そのことについて、次の章で考えてみたいと思います。--
 (第二章終はり)

 (西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』
 (日新報道・1997年)76~77ページより)

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ローマ法王、ホロコースト否定の英国司教らの破門を撤回

ローマ法王、ホロコースト否定の司教破門を撤回

   1月27日14時48分配信 CNN.co.jp

エルサ レム(CNN) ローマ法王ベネディクト16世は24日、ナチスドイツ時代のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を否定する発言をした英国人のリチャード・ ウィリアムソン司教らの破門を撤回すると発表した。イスラエルのユダヤ人当局者は、これに強い不快感を示している。

破門を撤回されたのは、聖ピオ十世会所属のウィリアムソン司教ら4人。同司教は先日スウェーデンのテレビ局に対し、ナチスドイツの収容所で死亡したユダヤ人は20─30万人にのぼるものの、ガス室で死んだ者はいないなどと主張した。

ユダヤ人側との連絡を担当するキリスト教一致推進評議会のウォルター・カスパー枢機卿は電話でCNNに対し、「(破門撤回は)法王の決定。自分の意見はあるが、法王の決定にコメントしたくない」と述べた。

聖ピオ十世会は1960年代のバチカン改革に反対したルフェーブル大司教によって設立され、非認可の儀式で4人を聖職に任命。この結果88年、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世が4人を破門した。

カトリック内部の専門家らの多くは、ベネディクト16世が超保守派との不和修復を図る一方、改革を全面的に容認してきたリベラル派との間に溝を作る危険を冒しているとの見方にある。

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伝統保守カトリック・ピオ10世会の司教がスウェーデンのTVでガス室否定発言

 

第2バチカン公会議に反対するルフェーブル派、ピオ10世会についてはバルセロナより